日本の歴史と巡る
邦楽&清元年表
このページでは「清元」を中心として歴史を読み解いてみたいと思います。
当時の人々は「事変」があっても「災害」があっても「疫病」が流行っても「黒船」が来ても、明るく娯楽を追求していました。
「日本」の歴史ではなく「日本人」の歴史を感じて頂ければと思います。
足利尊氏が征夷大将軍になる
日明貿易(勘合貿易)が始まる
足利義政が室町幕府8代将軍となる
浄瑠璃の誕生
宇田勾当が「やすんだ物語」のうち「猿轡」を琵琶で語ったのが始まりとされるが、当時から「浄瑠璃」と呼ばれていたかは諸説あり。
応仁の乱
キリスト教伝来
桶狭間の戦い
渡来の三味線を使っての浄瑠璃
沢住検校、滝野検校らが「浄瑠璃姫物語」を琵琶から三味線に変更し語った
室町幕府滅亡
足利義昭が京都から追放され室町幕府が滅亡
本能寺の変
豊臣秀吉が全国統一
「かぶき踊り」が京都で人気を博す
最初は能楽で使用する楽器(能管、締め太鼓、太鼓、小鼓)のみ踊っていたが、のちに三味線を取り入れたりと大人気を博す
「ややこ踊り」を基礎にして舞っていた「阿国」が特に有名
朝鮮出兵(文禄の役)
関ケ原の戦い
徳川家康が征夷大将軍になる
大阪冬の陣・大阪夏の陣
庄司甚右衛門「葭原(あしわら)」に遊郭を設置
庄司甚右衛門が幕府の許可のもと「葭原・あしわら」(現在の日本橋人形町)に遊郭を設置
字を変え「吉原」となる
のちに「元吉原」ともいわれる
猿若勘三郎が「猿若座」を開場
「猿若勘三郎(初代中村勘三郎)」が江戸の中橋南地(現在の京橋)に「猿若座(中村座)」を開場
江戸歌舞伎の始まりとされる
「 村山座(のちの市村座)」が開場
村山又三郎が江戸葺屋町(現在の日本橋人形町)に「村山座」を開場
のちに経営権が変わり「市村座」となる
島原の乱
「山村座」が開場
江戸木挽町(現在の銀座)に「山村長太夫(岡村長兵衛) 」が「山村座」を開場
吉原遊郭が移転
幕府の命により浅草寺裏の日本堤へ「吉原遊郭」を移転する
「新吉原」ともよばれる
初代森田勘彌が「森田座」を開場
初代森田勘彌が江戸木挽町(現在の銀座)に「森田座」を開場
のちに11代目から「守田勘彌」「守田座」と共に改名
竹本義太夫が独立「義太夫節」成立
京都で独立、人形芝居の一座に加わり「竹本義太夫」と名乗る
のち大阪道頓堀に「竹本座」を開設
徳川綱吉が江戸幕府第5代将軍となる
都太夫一中「一中節」成立
京都で義太夫節とは違ったの表現で浄瑠璃を語った
後に江戸に下り歌舞伎音楽として用いられる様になった
「上方長歌」の発達
元は上方の地歌であったが「上方歌舞伎」の劇中の長編演奏などで発達
「長うた」「長哥」とも
「江戸長唄」の発展
「上方長歌」が歌舞伎と共に江戸へ
(赤穂事件)吉良邸討ち入り
赤穂浪士が吉良上野介邸へ討ち入り
通称「忠臣蔵」で有名
「山村座」が廃座
「江島生島事件」 により興行権利を没収、廃座
徳川吉宗が江戸幕府第8代将軍となる
近松門左衛門 死去
宮古路豊後掾「豊後節」成立
都太夫一中の弟子の宮古路豊後掾が師の死後独立する
後の歌舞伎浄瑠璃の重要な礎となる
弟子たちが「常磐津節」「新内節」「宮園節」「富本節」「清元節」などを派生していった
享保の大飢饉
江戸で「豊後節」が禁止される
江戸で爆発的な人気を博した豊後節が幕府より「風紀を乱す」との沙汰で一切を禁止される
この禁止令により「豊後節」を名乗れなくなったのも派生が多く起こった原因の一つとされる
ロシア船が陸奥や房総、伊豆に出没
大阪・竹本座で「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」(人形浄瑠璃) 初演
「常磐津節」の成立
宮古路豊後掾の弟子が江戸で「常磐津文字太夫」を名乗り 成立
清元の前身となる「富本節」成立
宮古路豊後掾の弟子が初世常磐津小文字太夫と名乗るが、のちに独立「富本豊志太夫(豊前掾)」を名乗り成立
老松(おいまつ)
本名題 なし
長生(ちょうせい)
本名題 栄能春延壽
(さかえのはるのぶることぶき)
第8代将軍徳川吉宗 死去
明和の大火(江戸)
杉田玄白らが「解体新書」を発行
檜垣(ひがき)
百夜菊色の世中
(ももよぎくいろのよのなか)
平賀源内が「エレキテル」を制作
鞍馬獅子(くらまじし)
夫婦酒替ぬ中仲
(めおとざけかわらぬなかなか)
桜島(薩摩)が大噴火
十二段(じゅうにだん)
十二段君が色音
(じゅうにだんきみがいろね)
天明の大飢饉
新曲高尾懺悔(しんきょくたかおざんげ)
本名題 なし
浅間山大噴火
お俊(おしゅん)
其噂櫻色時
(そのうわささくらのいろどき)
徳川家斉が江戸幕府第11代将軍となる
寛政の改革
お菊幸助(おきくこうすけ)
名酒盛色の中汲
(なさけざかりいろのなかくみ)
東洲斎写楽の浮世絵が大流行
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が刊行
文化の大火(江戸芝の大火)
蘭学者の緒方洪庵が生まれる
フェートン号事件 (長崎)
うかれ坊主(うかれぼうず)
七枚續花の姿繪
(しちまいつづきはなのすがたえ)
種蒔三番叟(たねまきさんばそう)
再春菘種蒔
(またくるはるすずなのたねまき)
清元節創設
市村座の興行に於いて
清元延寿太夫(初世)を名乗る
大老井伊直弼が生まれる
権八・上(ごんぱち・じょう)
権八・下(ごんぱち・げ)
其小唄夢廓
(そのこうたゆめもよしわら)
「榮寿太夫」の名
松江藩主松平治郷(不昧)公の御前にて初世清元延寿太夫の子「巳三治郎」が15歳で元服
「榮寿太夫」と蝉桐の紋服を拝領
後の二世清元延寿太夫
女太夫(おんなだゆう)
七小町容彩四季
(ななこまちすがたのさいしき)
蘭学者 杉田玄白 死去
学者 伊能忠敬 死去
出雲梅(いづもうめ)
本名題 なし
清元榮寿太夫 名披露
江戸中村座「道行思案餘」に於いて「清元榮寿太夫」として名披露
初世清元延寿太夫の子で後の二世清元延寿太夫
お半(おはん)
道行思案餘
(みちゆきしあんのほか)
鳥羽繪(とばえ)
御名残押繪交張
(おんなごりおしのまぜばりえ)
町娘の間で踊りや三味線の稽古が流行
コレラ菌大流行
対馬から本州へ大阪京都まで大規模に感染
十数万人の被害があった
茶筌売(ちゃせんうり)
詠梅松清元
(さきそむるれんりのきよもと)
嫁菜摘(よめなつみ)
道行誰夕月(みちゆきたれもゆうづき)
勝海舟が生まれる
山帰り(やまがえり)
山歸强桔梗
(やまがえりまけぬききょう)
山姥(やまんば)
月花玆友鳥
(つきとはなここにともどり)
オランダ学者シーボルトが長崎で「鳴滝塾」開設
吉原雀(よしわらすずめ)
筐花手向橘
(かたみのはなむかしのそでのか)
梅川(うめがわ)
道行故郷の春雨
(みちゆきこきょうのはるさめ)
清元延寿齋と改名
清元延寿太夫(初世)が剃髪し延寿齋に改名
市村座「復新三組盞」にて披露
[延壽と覚明どっちらも太夫坊」という川柳が流行る
江戸幕府が「異国船打ち払い令」発令
清元延寿齋 死去
芝居出演後の帰宅途中で何者かによって刺殺される
絶大な人気に嫉妬した者の犯行とみられたが犯人は不明
享年49歳
岩倉具視が生まれる
お染・上(おそめ・じょう)
お染・下(おそめ・げ)
道行浮塒鷗
(みちゆきうきねのともどり)
座頭(ざとう)
歌へすがえす餘波大津繪
(かえすがえすおなごりおおつえ)
船頭(せんどう)
歌へすがえす餘波大津繪
(かえすがえすおなごりおおつえ)
西郷隆盛が生まれる
二世清元延寿太夫 襲名
江戸市村座「月雪花蒔繪の巵」に於いて榮寿太夫が26歳で延寿太夫を襲名
納豆売り(なっとううり)
月雪花蒔繪の巵 (つきゆきはなまきえのさかづき)
雲助(くもすけ)
花雲助合肩(はなのくもすけてあいうた)
神田佐久間町の大火(文政の大火)
伊勢神宮「御蔭参り」大流行500万人規模
土佐繪(とさえ)
吾妻櫻衆袖土産
(あづまざくらてごとの いえづと)
第121代 孝明天皇が生まれる
葛飾北斎「富嶽三十六景」刊行
大盗人 鼠小僧 小塚原刑場にて処刑
天保の大飢饉がはじまる
小糸(こいと)
二世契緣授絲
(にせのちぎりえにしのくみいと)
歌川広重「東海道五十三次」が完成
浅間(あさま)
初霞浅間嶽(はつがすみあさまがだけ)
大阪「大塩平八郎の乱」勃発
高杉晋作が生まれる
天保の改革
改革の煽りを受け、七代目市川團十郎が「手鎖・江戸処払い」の刑に処される
曲亭馬琴「南総里見八犬伝」完結
初版以来28年掛けて完成
ちなみに初版時1814年は清元が成立した年
江戸三座「中村座・市村座・森田座 」が猿若町へ移転、開業
俗称を清元太兵衛に
二世清元延寿太夫が俗称として清元太兵衛に改名、今後この名で舞台を務める
第121代孝明天皇即位
六玉川(むたまがわ)
草枕露の玉歌和
(くさまくらつゆのたまがわ)
旅奴(たびやっこ)
八段目旅奴
(はちだんめたびやっこ)
車引き(くるまびき)
五諸車引哉袖褄
(ごしょぐるまひけやそでつま)
浮世絵師 葛飾北斎 死去
明烏(あけがらす)上
明烏(あけがらす)下
明烏花濡衣
(あけがらすはなのぬれぎぬ)
「黒船」ペリーが浦賀沖に来航
日米和親条約締結
二世清元延寿太夫 死去
享年54歳
切腹して自ら命を絶ったと娘お葉が語ったという文献が残る。
その後、実子がいたが芸筋が悪く、妹聟が三世延寿太夫となる。年月未詳
江戸安政の大地震
コレラが再び大流行
「安政コレラ」ともいわれ全国に広がる
江戸だけでも10万人以上の死者を出した
三世清元延寿太夫 死去
享年38歳
三世延寿太夫に関しては不明な点が多い。二世延寿太夫の妹娘聟で三世延寿太夫を襲名。年月は不明。金銭により名跡を買い取り実際は舞台出演も少なかったという説もある。コレラで命を落とす。
四世清元延寿太夫 襲名
二世延寿太夫の娘お葉の聟が27歳のとき襲名
大老井伊直弼による「安政の大獄」
扇獅子(おうぎじし)
扇獅子富貴の英
(おうぎじしふきのはなぶさ)
三人吉三(さんにんきちさ)
三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)
桜田門外の変
大老井伊直弼 死去
双六(すごろく)
靑樓春道中双六
(さとのはるどうちゅうすごろく)
第14代将軍徳川家茂と皇女和宮が降嫁
またまたコレラが大流行
全国で60万人の感染
江戸では7万の死者を出した
生麦事件
薩英戦争
蛤御門の変(禁門の変)
大政奉還
戊辰戦争が勃発
明治維新
江戸が「東京」となる
廃藩置県
「守田座」が「新富座」に改名
「守田座」が新富町移転に伴い改名
宮比(みやび)
宮比御神樂
(みやびのみかぐら)
西南戦争が勃発
演劇改良運動
文明開化や諸外国との交流が活発になり、道徳的観点などから演目内容を変革し、日本の芸術性を高めた
筆屋幸兵衛(ふでやこうべえ)
水天宮利生深川
(すいてんぐうめぐみのふかがわ)
内閣制度の発足
曾我菊(そがぎく)
尾花末露曾我菊
(おばなのすえつゆのそがぎく)
「大日本帝国憲法」公布
「歌舞伎座(1期)」開場
明治の「演劇改良運動」の流れを受けて木挽町(現在の銀座)に開場
1889年(明治22年)~1911年11月(明治44年)7月
清元太兵衛と改名
四世延寿太夫が清元太兵衛と改名
60歳
河竹黙阿弥 死去
歌舞伎界のみならず清元でも「権九郎」「三千歳」「十六夜」「夕立」など多くの名作を残す
「中村座(猿若座)」消失により廃座
清元延寿翁に改名
太兵衛が延寿翁に改名
62歳
日清戦争が勃発
五世清元延寿太夫 襲名
四世延寿太夫の養子
3年前の1894年(明治27年)に榮寿太夫を襲名し家元を継承する
清元お葉 死去
二世延寿太夫の娘で四世延寿太夫の妻
二世延寿太夫の死後、陰ながら清元発展に尽力
「三千歳」「十六夜」「柏の若葉」「名寄せの寿」などの作曲補曲を数多く残す
享年43歳
千羽鶴(せんばづる)
千羽鶴空麗(せんばづるそらもうららか)
日露戦争が勃発
清元延寿翁 死去
享年73歳
伊藤博文 暗殺
「歌舞伎座(2期)」開場
純和風の外観に大改装
漏電により焼失
1911年(明治44年)10月~1921年(大正10年)10月
助六(すけろく)
助六曲輪菊
(すけろくくるわのももよぐさ)
清元が「高輪派」と「梅派」に分裂
五世延寿太夫(高輪派)と三世梅吉(梅派)が分裂
関東大震災
津山の月(つやまのつき)
本名題 なし
「歌舞伎座(3期)」開場
関東大震災で中断していた建設工事を再開し現在の歌舞伎座の外観の形に完成
東京大空襲により外郭を残し焼失
1924年(大正13年)12月~1945年(昭和20年)5月
ラジオ放送開始
お夏狂乱(おなつきょうらん)
本名題 なし
(三世清元梅吉作曲)
劇団「前進座」旗揚げ
「市村座」消失により廃座
四世清元栄寿太夫 死去
五世延寿太夫の長男。脳の病により父より早く亡くなってしまう。
峠の万歳(とうげのまんざい)
本名題 なし
(三世清元梅吉作曲)
太平洋戦争が勃発
五世清元延寿太夫 死去
享年80歳
東京大空襲
終戦
六世清元延寿太夫 襲名
五世延寿太夫の孫
新橋演舞場で襲名披露
「歌舞伎座(4期)」開場
東京大空襲で残った外壁の使用した大改修工事ののち完成
約60年使用される
1951年(昭和26年)1月~2010年(平成22年)4月
テレビ放送開始
「吉原遊郭」閉鎖
前年に可決された「買春防止法」により340年続いた「吉原遊郭」が閉鎖
東京タワー竣工
東京オリンピック開催
六世清元延寿太夫 死去
七世清元延寿太夫 襲名
六世延寿太夫の息子
七世延寿太夫を襲名
東京スカイツリー竣工
「歌舞伎座(5期)」開場
前期の景観をそのまま残し、歌舞伎座タワーと共に完成
2013年(平成25年)4月 ~
清元節生誕200年記念演奏会
歌舞伎座に於いて「清元節生誕200年記念演奏会」開催
新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的猛威
東京オリンピック開催
新型コロナウイルス(COVID-19) の影響により
1年延期 の末、開催