条野採菊(じょうのさいきく)
二世清元梅吉
1883年(明治16年)2月17日に素浄瑠璃で開曲。
1919年(大正8年)9月に歌舞伎座にて舞台化。
なし
清元全集 清元集 清元五十番
解説
謡曲(能の詞章)「角田川」を題材として作詞を条野採菊(じょうのさいきく)、作曲を二世清元梅吉が担当し清元の曲に仕上げました。ちなみに条野採菊は鏑木清方画伯の父でもあります。
この曲は1883年(明治16年)2月17日に素浄瑠璃(清元のみの演奏)として作詞者の自邸で開曲しました。そのため本名題も無く「隅田川」です。
1919年(大正8年)9月歌舞伎座の興行で二代目市川猿之助(初代市川猿翁)により舞台化されました。
我が子「梅若丸」を探し続けて都よりはるばる東の隅田川まで来た母「班女の前(狂女)」。それを「舟人(渡し守)」が助けます。髪も乱れ、もはや常人ではない様子でした。
舟人は心身共に疲れっきった班女の前を舟に乗せ、その経緯を聞くうちにある出来事を思い出します。それは昨年都より「人買い」が由緒のあるだろう幼い子供を買い取り、ここへやって来た話でした。
その幼い子供は一歩も歩けないほど疲れ果て、あげくに人買いに捨てられてしまいました。周りの人たちは不憫に思い介抱しましたが命を落としてしまうのでした。
舟人の話を聞いた班女の前は詳しい時期や年齢を問います。
「名前は?」
「梅若丸」
命を落とした幼い子供は班女の前の子供だったのです。
一層不憫に感じた舟人は梅若丸を供養した塚へと案内し念仏を唱えます。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・」
すると念仏の中に梅若丸が共に念仏を唱える声が!?
「ついと塒を立つ白鷺の 残す雫か露か涙か」
その声は幻であったのか。現実であったのか。空はほのぼのと空けてゆくのでした。
冒頭部分
「実にや人の親の 心は闇にあらねども 子を思う道に迷うとは」
この一節の通り、子供を想う親心は偉大です。母子の愛情に溢れている悲劇の大作です!
ちなみにこの開曲当時は遊里や色恋、下町を題材とした曲の多い清元も世間より非難されてました(演劇改良運動)。
そこで五世清元延寿太夫は今まで清元にある曲の歌詞編纂(不適切な言葉も使われていた)などで風評脱却を目指しました。この「隅田川」開曲も脱却の一つの方法としての試みでした。
子を失った母が隅田川岸をさまよい歩き、舟人(渡し守)が介抱する場面やその母を塚へと案内する場面など、今までの清元の様に艶っぽさはなく、曲全体を上品に仕上げたのも上記の時代背景が大きいとされています。
また最後部分の舟唄「ついと塒を立つ白鷺の のこす雫か露か涙か」の部分も五世延寿太夫が補曲したと言われています。
歌詞
舟 人「これは隅田川の渡守にて候 今日は舟を急ぎ 人々を渡さばやと存じ候
又都より女物狂いの下り候由 暫く舟を止め彼の物狂いを待とうずるにて候」
実にや人の親の 心は闇にあらねども 子を思う道に迷うとは 今こそ思いしら雪の
身に降りかかる憂き苦労 誰に語りて晴らすらん
班女の前「これは都北白川に 年経て住める女なり」
思わざりき思い子を ひと商人に誘われて 行方は何処逢坂の 関の東の国遠き
東とかやに下りぬと 聞くより心乱れ髪 櫛けずるらん青柳の 愛しわが子を尋ねわび
千里を行くも親心 来るとはなしに東なる 隅田河原の片ほとり 渡りに近く着きにけり
班女の前「のうのう舟人 わらわをもその船に乗せて給わり候え」
舟 人「おことは何処より いづかたへ下る人ぞ」
班女の前「これは都より人を尋ねて この東へ下る者にて候
のう舟人 あれに白き鳥の見えたるは何と申し候ぞ」
舟 人「おお あれこそ沖の鴎なり」
うたてやな浦にては 千鳥ともいえかもめとは などこの隅田川にては 都鳥とは告げずして
沖の鴎と夕潮に 在吾の君の古えは わが身の上に業平や いざ言問わん都鳥
我思い子はありやなしやと 問えど 答えも渚こぐ 舟人わらわを乗せ給えと 言うに 舟人掉取り直し
舟 人「急ぎて舟に乗り候へ」
班女の前「おお嬉しの舟人やな
おおあの向いの柳のもとに 人の多く集 まりしは 何事にて候ぞ」
舟 人「さん候 あれは大念仏にて候 それにつき哀れなる物語りの候
この舟の向いへ着き候はん程に 語って聞かせ申すべし さても」
去年の弥生に 人商人の都より 幼き者を買いとりて 奥へ下らん道すがら ならわぬ旅の疲れにや
一足だにも歩めじと この川岸にひれ伏せしを 情を知らぬ人買いは 幼き者を路地路次に捨て
そのまゝ奥へ下りたり
舟 人「その幼な子を見てあるに 由ある者と思うにぞ」
人々さまざまいたわりて 国を問えば 都の白川 父御の名をば問いたるに 吉田と許り夕告ぐる
諸行無常の鐘の音を 聞くがこの世の名残りにて 草葉の露と消えにしは 哀れ というも愚なり
今日乗合いの方々も 逆縁ながら一遍の 念仏申させ給えかし
班女の前「のう舟人 今の物語りはいつの事にて候ぞ」
舟 人「昨年三月 しかも今日の事にて候」
班女の前「してその稚子の歳は」
舟 人「十二歳とか」
班女の前「その名は」
舟 人「梅若丸」
その幼き者こそは この物狂いが子にてあれ これは夢かや浅ましやと 人目も恥ず泣き伏せば
舟 人「おお さては御身が子にてありしか あら悼わしや
せめては亡き人の墓なりとも見せ申さん いざ此方へ」
いざさせ給えと伴えば 昨日迄も今日迄も 逢うを頼みに見も知らぬ 東の果へ下りしに
今は此世になき跡に 一ㇳ本柳枝たれて 千草百草茂るのみ せめては土を掘返えし
亡骸なりとも今一度 見たや逢いたやとばかりに 落つる涙は道芝の 露を欺くばかりなり
舟 人「如何に御歎き候共 今はその甲斐候わね 只々後世を弔い候えや」
我子の為と身を起し 月の夜念仏諸共に 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏
隅田河原の波風も 声たて添えて 南無阿弥陀 阿弥陀仏
班女の前「のうのう今の念仏の内に 正しく我子の声すなり」
我子はどこにいづくにぞ あるかなきかと箒木の いとど心の物狂い 我子の声と聞きたるは
川に飛び交う都鳥 我子の姿と見えたるは 塚に添うたるさし柳
ついと塒を立つ白鷺の 残す雫か露か涙か
幻の見えつ隠れつする程に 空ほのぼのと明けにけり