女車引(おんなくるまびき)

作詞

三世 桜田治助

作曲

清元千蔵

初演

1850年代(嘉永~安政)9月 吉原の行事「仁和賀(にわか)」にて披露。

歌舞伎
1960年(昭和35年)2月 名古屋御園座「女車曳」として

本名題

五諸車引哉袖褄(ごしょぐるま ひけやそでづま)

参考資料

清元全集 清元集 松竹歌舞伎制作部

解説

この曲は1960年(昭和35年)2月 名古屋御園座「女車曳」として現在の形で歌舞伎興行で初演されたと資料にはあります。

初演時配役
千代・・・二世中村雁治郎
春 ・・・五世澤村訥升(九代目澤村宗十郎)
八重・・・二世中村扇雀(四世坂田藤十郎)

元々は1850年代(嘉永~安政)に吉原遊郭で毎年9月に催される「仁和賀(にわか)」という行事にて初披露されたと伝わります。
「仁和賀」とは吉原の遊女や芸人が、その時流行している芸術やファッションを真似たり、新たに発信する場で、ここで取り扱うと翌年の流行を大きく左右するとまで言われるほど影響のある行事でした。また現在使われている「にわか」の語源にもなったと言われています。
この「女車引」は吉原の「仁和賀」で実際に発表されたと確証があり、作詞・作曲・振付をも今日に伝える唯一の曲であるとも言われています。

登場人物は「菅原伝授手習鑑」の「車引」の三ツ子「松王」「梅王」「桜丸」のそれぞれ女房達「松王女房・千代」「梅王女房・春」「桜丸女房・八重」です。
内容もそれぞれ夫の立場と同じ設定で、牛車の口取りをする白い衣を羽織って御所車を引きあったり、女房ならではの佐田村の賀の祝いの料理を用意する場面も出て来ます。
最後は三人で一緒に踊り、吉原を匂わせるような華やかさで幕になります。

原作では兄弟間の争いという少しショッキングな内容ですが、そこを除いて、小道具や衣装など、ほとんどそのまま女形版として移植された舞台です。

<ちょっと余談>
御所車(牛車)を曳く(引く)という場面。
一見、力自慢や粗暴な印象を受けますが、「曳く(引く)」というのは日本古来より綱や大木を引きあって翌年の吉凶・豊作を占うという神聖で大切な行事に多く見受けられます。
「車引」の「引き」や他の荒事狂言の中にも、「引く力」に対しての神聖な意味合いが秘められています。

歌詞

色香争う車引 酒の機嫌かほんのりと
顔は桜になる目元 笑い上戸の梅にはかえて
味に拗ねたる松の癖
ありゃありゃこりゃこりゃ三人で
二升三升五諸車
戯がこうじてメリメリメリ

影をのみ 見交はすばかりつれなきと
源氏の文を繰り返し 御簾の追い風恋車

酒がこうじて喧嘩の種よさ
扱いになりすましたしゃんしゃん
しゃんと執りなり可愛らし

摘み草や ほんの嫁菜の姉妹が
思ひ思ひの料理草

古来希なる七十の 賀の祝とて昨夜から
雑煮の仕度提灯で もちっと精出せ合点じゃ

梅の殿振り木振りも粋な
殿御待つ身と春告草と
こちは遣る瀬がないわいな
八重に櫻の仇名草 床し床し の積もりて雪の
松の操を立て通し 変わらぬ縁の千代見草

米かす味噌摺りガラガラガラ
女同士の水仕業 これもおもしろ鹿島へ

御代は目出たのナンナァエ これわいな
若松様ァよ おやもさ おやもさ
鹿島浦にはナンナァエ これわいな
さあ ちぇぼさえコレワちょんねがナァァァエ
さあ黄金びしやァくでサァ
水さ汲みましょナァァァエ
そんなら誠にこれが今年のナァンナァエァァエ
これわいお暇乞いのかん鹿島へ
ヤレェこれが今年のナァンナァエァァエ
これわいお暇乞いのかん鹿島へ

オーエンヤリョー

濡れて見よかし目せき笠
恋の言葉を 傘によそへて言おうなら
濡れてしっぽり心の丈を
割って轆轤の縁しさへ
愛し愛しと焦がれてそして
晴れて青紙楽しみに いつかは君が軒の妻
それも誓ひし神さんの 結ぶ縁じゃないかいな
睦ましや
袖をつらねて萬客の 夜毎に引かれ車引き
評判 吉原栄えける

動画