河竹黙阿弥
清元千蔵?
清元一寿郎(昭和47年改作版)
1860年(万延元年)1月 江戸市村座
1972年(昭和47年)1月 国立大劇場(昭和47年改作版)
清元千蔵?
清元一寿郎(昭和47年改作版)
初櫓噂高嶋(はつくるわ うわさのたかしま)
初櫓噂高音(はつやぐらうわさのおとわや)(昭和47年改作版)
清元全集 国立劇場
解説
※このページは「三人吉三」の大詰「本郷火の見櫓の場」(竹本・清元掛合)を中心に解説しています。
「三人吉三」は河竹黙阿弥原作で1860年(万延元年)1月に江戸市村座に初演されました。
黙阿弥45歳、劇作家として人気絶頂の頃の作品で、現在でも傑作の一つに数えられています。
初演時は本名題を「三人吉三廓初買」といって別の登場人物たちの情話が盛り込まれていました。
初演時(1860年(万延元年))
お嬢吉三 三世岩井粂三郎(八世岩井半四郎)
和尚吉三 四世市川小團次
お坊吉三 初世河原崎権十郎(九世市川團十郎)
清元
四世清元延寿太夫 清元家内太夫 清元千代太夫
清元千蔵 清元一寿 など
初演から約40年ほど月日が流れた1910年(明治43年)明治座で、三人吉三のくだりだけを上演するようになり、本名題も「三人吉三巴白波」と改めました。
清元が演奏するのは大詰「本郷火の見櫓の場」です。
この場は「八百屋お七」からほぼ移植されたであろう場面で「お嬢吉三」が「お七」に見立てた振りなども見受けられます。
こちらは竹本との掛け合いになります。
歌詞や台詞は初演時から殆ど変わらない内容ですが、現在演奏されている曲は清元一寿郎師作曲による、1972年(昭和47年)1月に国立大劇場初演のものです。
本名題も「初櫓噂高嶋(はつくるわ うわさのたかしま)」から「初櫓噂高音(はつやぐらうわさのおとわや)」と変わりました。
これは改作時にお嬢吉三を演じた七世尾上梅幸丈、もしくは和尚吉三を演じた二世尾上松緑丈の屋号「音羽屋」から付けたものと推測されます。
1972年(昭和47年)1月 国立大劇場・改作版の出演は
お嬢吉三 七世尾上梅幸
和尚吉三 二世尾上松緑
お坊吉三 十七世市村羽左衛門
竹本
竹本扇太夫 竹本文春太夫
野澤松三郎 豊澤宗之助
清元
六世清元延寿太夫 清元若寿太夫 清元清寿太夫 清元美寿太夫 清元清美太夫 清元邦寿太夫
清元一寿郎 清元榮三 清元清之輔 清元秀二郎 清元國次郎 清元寿三郎 清元一多郎 清元美治郎 清元美多郎
場面は人通りの無い雪の降りしきる本郷二丁目の火の見櫓の前。三人吉三詮議の為に町木戸を固く閉ざしているのでした。
そこへお坊吉三とお譲吉三が木戸越しに顔を見合わせ会いたかったと涙します。やがて自分たちが身代わりに和尚吉三を助けようと、むやみに鳴らすことを禁じられている「櫓の太鼓」をお嬢吉三が叩き、出てきた役人と大立廻りをするお坊吉三。向こうやってきた和尚吉三が自分を訴えた釜屋武兵衛を斬り伏せます。
そこへお嬢吉三の親である八百屋久兵衛が登場し、主家安森の子息お坊吉三、養子十三郎の兄和尚吉三と、それぞれの深い縁に驚きます。
「庚申丸の脇差」と「百両の金」「安森家の再興」を八百屋久兵衛にそれぞれ託します。
もう思い残すことのない三人はこれまでの悪事のむくいを果たそうと、三つ巴になって刺し違えて壮絶な最後を遂げるのでした。
歌詞
※青=竹本連中 赤=清元連中
春の夜に 降る泡雪は軽くとも 罪科重き身の上に
吉三吉三も世を忍び 派手な姿も色さめて
去年の椿の花もろく 落ちて行方は白妙の
四つの街(ちまた)や六つの花
「セリフ」
後ろ見らるる落人に 軒の氷柱も影凄く
ぞっと白刃にあらねども 襟に冷たき春風は
筑波ならいか
富士南
「セリフ」
ふさがる胸の晴れやらで もしやと顔を見合わせて
「セリフ」
会いたかったと木戸越しに 縋る手さへも震われて
「セリフ」
五つの年にかどわかされ 故郷を離れ旅路にて
憂き年月を越路潟
立ちし浮名の白波に 跡を隠してこの江戸で
同じ吉三に兄弟の 結びし縁も薄氷
しばし歎きに沈みしが ふっと目につく櫓の太鼓
「セリフ」
見上げる空に吹き下ろす 夜風に邪魔な振りの袖
命一つを捨て鐘と 胸に時打つ左右より
「セリフ」
打ってかかるを身をかわし 小腕取って左右より 雪に悦ぶえのころ投げ
裾もほらほら ようようと お嬢吉三が竹梯子
登れば滑る水氷
雪に山成す屋根の上 お坊吉三は邪魔させじと
支ゆる捕り手を追い散らす 吹雪激しき働きに
あしらいかねし後ろより お坊吉三が助太刀に
此方は何なく火の見の上 撥おっ取って打つ太鼓
「セリフ」
折から来たる八百屋久兵衛
「セリフ」
二品携え久兵衛は 飛ぶが如くに駆けてゆく
「セリフ」
櫓太鼓の三つ巴 浮名ばかりぞ