三枡屋二三治
初代清元齋兵衛
1824(文政7年)3月 江戸市村座
道行故郷の春雨
清元集 清元全集 清元五十番
解説
通称を「梅川」または「梅川忠兵衛」「新口村(にのくちむら)」と言います。
宝永(1704~10)に大阪淡路町の飛脚屋「亀屋」の養子忠兵衛と新町の遊女梅川が駆け落ちをしたという実際にあった事件がありました。それを題材として1711年(宝永8年)に近松門左衛門が「冥途の飛脚」と題して人形浄瑠璃で発表しました。その後「梅川(新口村)」を題材にした道行物が多く発表されました。
●富 本「道行戀飛脚」1780年(安永9年)
●常磐津「道行情の三度笠」1841年(天保12年)
他
今回の「道行故郷の春雨」は富本「道行戀飛脚」を1824(文政7年)3月、江戸市村座にて、清元に脚色して作られています。
本名題に「春雨」とあり、初演が3月であったこともあり春景色の場面での上演であったと考えられています。現在では原作通りの一面冬景色の場面に戻され上演されます。
〇1824(文政7年)3月江戸市村座での初演
梅川 五世岩井半四郎
忠兵衛と孫右衛門 三世坂東三津五郎
清元
浄瑠璃
初世清元延寿太夫 清元榮寿太夫 清元政太夫
三味線
初世清元齋兵衛 清元東三郎
内容は
梅川と駆け落ちをして故郷の新口村に着いた忠兵衛は、養父「妙閑」や許嫁の「おすわ」へ罪を悔いて嘆きます。せめて実の母親の墓へ一緒に入り冥途で嫁姑を会わせたいと思い、家来筋の「忠三郎」の家へ頼みに雪道を二人で歩みます。
忠兵衛の気持ちは嬉しいが、梅川も京に住む実の母にひと目会って死にたいと縋ります。
そうこうしているうちに向こうより忠兵衛の実の親「孫右衛門」が通るのを見つけます。
親不孝故に対面することができず遠くより深く挨拶をする忠兵衛と、愛する人の実父へ「見初めの見納め」と心からお詫びをする梅川。最後の別れに血に涙を流すのでした。
歌詞
落人のためかや今は若草の(冬枯れて) すすき尾花はなけれども
世を忍ぶ身の後や先 人目を包む頬かむり
隠せど色香梅川が 馴れぬ旅路を忠兵衛が
温められつ温めつ 石原道をはかどらぬ
身の繰り言は愚痴なれど 大恩受けし養子親
御苦労かけしその上に 明日の嘆きの数々は
解くに解かれぬ三度荷の 重き不孝の罪科と
かこち涙に目も潤む
顔つれづれと打ちまもり それそのように言わんす程
この梅川が身の辛さ 惚れた女子のしょうがには
仇な勤めを実にして 末は夫婦と言い交わし
今のお前の憂き難儀堪忍してとばかりにて 後は涙の村時雨
野辺のみつおりしおるにも 急げば早き故郷の
新口村にぞ着きにけり
忠兵衛「コレ ここは私が生まれた在所 四五町行けば実の親
孫右衛門様の所なれど 今の身の上をお目にかけるは大きな不孝
この藁葺きは忠三郎というて親達の家来同然 暫し身の上を頼んでみん」
梅川「そんならここがお前の在所 新口村でござんすかえ
人目厭うて来たなれど ほんに思えば」
大坂を立ち退いても 私が姿目に立てば
かり篭寵に日を送り 奈良の旅籠屋三輪の茶屋
五日三日と夜を明かし 二十日あまりに四十両
使い果たして二分残る 金故大事の忠兵衛さん
科人にしたも私から さぞ憎かろうお腹も立とうが
因果づくじゃと諦めて お許しなされて下さりませ
梅川「よしない私故 お前に心遣いさせますと思えば
ひょっと愛想も尽きょうかと そればっかりが悲しゅうござんす
そうしてここは剣の中 こうして居ても大事ござんせぬかえ」
忠兵衛「イヤイヤ男気な忠三郎 頼んで今宵はここに泊まり
死ぬるとも故郷の土」
生みの母の墓所へ一所に埋もれ 嫁姑の未来の対面させたいと
目もうろうろと泣きければ
それは嬉しゅうござんしょう
さりながら私がほんの母さんは 京の六条数珠屋町
一目逢うて死にたいと又も涙に咽び入る
忠兵衛「オォ道理じゃ道理じゃ 恩のある養子親 妙閑様や許嫁のおすわへも不埒の詫
オォあれあれ あれへおみえなさるは親父様孫右衛門様ぢゃ
この世のお別れ余所ながらのお暇乞い」
梅川「そんならアノもじの肩衣を着てござんすが お前の父さんでござんすかえ
ほんに親子とて争われぬもの 目元なら口元なら お前によう似た事わいな」
忠兵衛「サササそのようによう似た親と子が 言葉さえ交わされぬは
何としたこの身の因果」
梅川「ほんに今がお顔の見始めの見納め 私しゃ嫁の梅川でござんすわいなア」
貴方へ御苦労かけまするも みんな私故この梅川ゆえ
忠兵衛「アァコレ人目にかからば互いの身の上 少しも早う」
梅川「そんならこの世の」
忠兵衛「はて未練なことを」
平沙の善知鳥(うとう)血の涙 永き親子の別れには
安方ならで安からぬ 心残して別れ行く
両人「おさらば」
心残して別れ行く