うかれ坊主(うかれぼうず)

作詞

二世 桜田治助

作曲

五世 清元延寿太夫
二世 岸澤古式部(原曲・常磐津)

初演

1811年(文化8年)3月 江戸中村座(常磐津節で初演)
1929年(昭和4年)6月 歌舞伎座

本名題

七枚續花の姿繪(しちまいつづき はなのすがたえ)

参考資料

清元集 清元全集 清元五十番

解説

この曲は1811年(文化8年)3月 江戸中村座で三世坂東三津五郎が踊った七変化舞踊「七枚續花の姿繪」の「願人坊主(常磐津)」を1929年(昭和4年)6月 歌舞伎座興行で六世尾上菊五郎が復活上演した際、「うかれ坊主(清元)」に改作して上演しました。

ちなみに1811年(文化8年)3月 江戸中村座での七変化は

女三宮(常磐津)
梶尾源太(常磐津)
願人坊主(常磐津)
関羽(常磐津)
猿回し(長唄)
老女(長唄)
汐汲(長唄・常磐津 掛け合い)

上記で上演されていた様です。

 

願人坊主とは、手桶を持って家を廻り、滑稽話をしたり、本人に代わって願掛けをして代金をもらっていた、文化期に市中で見かけたホームレスの坊主のことです。

舞台での格好は頭を剃らず、ほとんど裸に薄い衣を身に纏っていて手桶を持っています。

主人公の浮気な身の上話を「チョボクレ」のリズムに乗せて語り、常磐津の原曲「願人坊主」に「混ぜこぜ節」として「雲助」の「のぼり夜舟~葭の先へとまらんせ」までを付け加え、最後は「三社祭」の悪玉のお面を付けて軽妙に踊るというユーモラスな曲です。

歌詞

男裸でなぁ 百貫かんの寒も
土用もわしゃ苦にゃならぬ ほんにえェ
お門へたった一文に 見限ぎられたる破れ衣
手桶と身柄一心に 浮世を渡る道楽寺
八宗九宗丸呑に 酒むに如来鼻の下
食う殿建立

「と来たりやな  トトトトト」

トォきおいぐち

「さらば和尚が身の上話一寸ちよぼくにかけべえか」

やれェェどらが如来

「やれやれやれやれ ちょぼくれちょんがれ そもそもわっちがすっぺらぽんの のっぺらぽん のっぺらぽんのすっぺらぽんと坊主になった いわれ因縁 コレ聞いてもくんねぇ」

然も十四のその春はじめて 一軒となりの 其又隣りの

「いっちくたっちく太衛門どんの 乳母さんとちょぼくり」

色のいの字の味を覚えて 裏のかみさん向うのおばさん お松さんにお竹さん

「しいたけさんに干瓢さんと」

さわり次第におててん枕で やった揚句が女郎と出かけて

「ヤレヤレ畜生め そこらでやらかせ」

手練手管にがららかかって 家にゃ片時おいども据らず
舟じゃ危ねえ お駕籠で来なせ
なんのかのとの親切ごかしに いよいよ首ったけ
はまってのめたり むくむくった

「そ そそそそ・・」

其時は
ぶん流したる大洒落に
さればこれから混ぜこぜ踊りはどうじゃいな

「オット来なせェ」

面白や

上り夜舟の 櫂や櫓じゃとて 舵を取ったえ
佐田や枚方 淀 水に車がぐるぐると
伏見へ着くえェ

「オーイ」

オーイおやじ殿 其の金こっちへ貸してくれ
与市兵衛仰天し いえいえ金では御座りません
娘化粧すりゃ 狐がのぞく
賽の河原の地蔵尊
一つっとや 一ト夜明くれば賑かで
賑やかで飾り立てたる 松ひと木変らぬ

色の世界に色なき者は
わしとかかさんと 糸取って居たら
殿御といいの
東上総のいちみの郡 村の小名をばかね

沖に見ゆるは肥後様のえぇ それそれ船よ
紋は九つ 九燿の星

蝶々とまれや 菜の葉がいやなら
葭の先へとまらんせ

とんび烏にならるるならば 飛んで行きたや主の側
主と二人でわしゃ暮すなら 酒で苦労もおきながし
鍋釜へっとい 銅壺薬缶にすり鉢か すりこぎか
ついでにおやじも 添えしゃいィィィなぁ

滅多に出まかせ足まかせ 源八和尚は雲をやみ
いさみ散らして走り行

動画