吉原雀(よしわらすずめ)

本名題

筐花手向橘(かたみのはなむかしのそでのか・かたみのはなたむけのそでのか)

作詞

三升屋二三治(みますやにそうじ)

作曲

初代清元齋兵衛(諸説あり)

初演

1824年(文政7年)2月 江戸市村座。

参考資料

清元全集 清元集 清元五十番 清元心得帖 清元と舞踊

解説

この曲は初代桜田治助作・長唄「教草吉原雀」を改作して作られたもので、1824年(文政7年)2月、江戸市村座で四代目市村竹之丞百年追善興行で初演されました。
そのため本名題「筐花手向橘」には「手向」や市村竹之丞の屋号「橘」が用いられています。また読み方も「むかしの」「たむけの」「こころの」と三通りあります。

「吉原雀」とは籠の中でやかましく囀る葭切ヨシキリの事ですが、吉原の遊客をそう指したりしていました。

詞章の冒頭
「俳優の昔を今に教え草~誰も三升とやつし事」
長唄の曲から移してきたことを説明し、初演の岩井紫若(七代目半四郎)と七代目市川團十郎の定紋で紹介しています。

「凡そ生けるを放つ事~諸国に始まる放生会」
旧暦八月十五日に供養のために生き物を放つ「放生会」という行事を説明しています。
それは吉原でも盛大に行われ、日ごろは籠の鳥である遊女がこの時だけ自由に外出できることから遊廓では特別な日でもありました。

「其の手で深みへ浜千鳥~初心可愛ゆく前渡り」
ここは吉原遊郭へどっぷりはまってしまった客、田舎から出てきて冷やかす客、遊女との駆け引きなど店外での様子が語られています。

「さあさあ来たぞ来たぞ来たぞよ~どうぞ二人がこっそりと」
ここは店の中の様子を語っています。
「土手節」という曲調で、指名の遊女は人気でいつも他の客と一緒にいることを妬んだりしています。

「深山の奥のその奥の~女子に二つはないわいな」
ここは遊女が客に甘えて、いつかは妻に迎えてもらいたいと睦言を語ります。


「吉原雀の雛から飼われて~」
ここからは遊女の育った環境や嘘を付くものであると言っていますが、結局男は騙されてしまうものと、男の心理を滑稽に表現しています。


「月なら最中竹村の」
ここは店のCMです。放生会は八月十五日、満月です。当時吉原遊郭内に「竹村伊勢」という有名な御菓子屋があり、名物の丸い最中と満月を掛けています。


全体的に「鳥」に掛けて構成されています。立方も放鳥売りの格好に扮し吉原を売り歩き、遊郭の遊女や客との恋の駆け引きなどを「鳥」と絡めて踊り分ける作品に見事に仕上がっています。

歌詞

俳優の昔を今に教草 吉原雀の古事を
ここに移して三つ扇 誰も三升とやつし事

凡そ生けるを放つこと 人皇四十四代の帝
元正天皇の御宇かとよ 養老四年の中の秋
宇佐八幡の託宣にて 諸国に始まる放生会
浮寝の鳥にあらねども 今も恋しき独り住み
小夜の枕に片思ひ 可愛い心と酌みもせで
何じゃやら憎らしい

其手で深みへ浜千鳥 通い馴れたる土手八町
口八町に乗せられて 沖の鴎の二挺立ち三挺立ち
素見ぞめきは掠鳥の 群れつつきつつき格子先
叩く水鶏の口豆鳥に 孔雀ぞめきで目白押し
見世すががきのテンテツトン サッサ押せ押せぇ

馴れし廓の袖の香に 見ぬようで見るようで
客は扇の垣根より 初心可愛ゆく前渡り

「さぁさぁ来たぞ来たぞ 来たぞよ」

さあ来たまた来た

「ナニさしがあると」

さわりじゃないか

「さしもすさまじいわい」

またおさわりか

「おいせんしう頼むぜ」

お腰のものも合点か

「ソレから傘そこへ置くぜ」

二階座敷は

「こを右か左か」

ずっと奥座敷でござります
新造そさまは 寝ても覚めても忘られぬ
どうぞ二人がこっそりと

深山の奥のその奥のぐっとの奥の佗住居

「憎いぞへ」

そうした黄菊と白菊の 同じ勤めのその中に
きりと呼ばるる果敢なさは 年が明くのを待兼ねて
やっぱりしたばと呼ばれたく 男故なら楽しみに
苦界する身を立てるとて 義理一遍のあだつきは
結句心のもめる種 勤めする身も素人も
女子に二つはないわいな

「よして呉れ よして呉れ よして呉れよ」

吉原雀の雛から飼はれて 山雀小雀の
くちばしなんぞで てれんの初音を 聞いてもくんねェ
うそどりゃないとの日文の駒鳥 そこらの目白が見つけて鶺鴒
約束雲雀は昼でもよしきり ちょっと格子へ顔とり出せとは
さりとはひわ鳥
鶯の魂胆秘密は手管のくだかけ 奇妙鳥類 篭の鳥
わけも何やらをかしらし

文の便りのなぁ 今宵ごんすと其の噂
いつの紋日も主さんの 野暮な事じゃが比翼紋
離れぬ仲ではないかいな

実に花ならば桜時 月なら最中竹村に
その青楼の名にし負ふ 新吉原という雀
今に噂や残るらん

動画