第7回やのくら音楽会 直前の曲紹介第1弾「種蒔三番叟」

こんにちは。くにえです。

 

今回は来月2月7日(日)に開催します「第7回やのくら音楽会」直前の曲紹介第1弾としまして、
「種蒔三番叟(たねまきさんばそう)」についてお話いたします!

 

本名題を「再春菘種蒔(またくるはるすずなのたねまき)」といいます。

「舌出し三番叟」とも「志賀山三番叟」とも俗称したりします。

 

この曲は清元流の中でも最古のもので、文化9年(1812年)九月に江戸中村座にて上演しました。
初世清元延寿太夫が前名の豊後路清海太夫(ぶんごじきよみだゆう)と名乗って舞台に出演していた頃の話で、「清元」を興す2年前のことです。

 

ちなみに1812年はドイツでグリム兄弟が「グリム童話」の第一巻を出した年です。

 

「三番叟」のルーツは大変古く、「能」のルーツを紐解かなければなりません。

 

手元に確かな資料がないため、寄せ集めの情報になってしまうのですが、能の成立には主に3つの種類があるといわれています。

 

 ・中国から伝わった散楽(さんがく)
 ・物まね芸能の猿楽(さるがく)
 ・五穀豊穣を願う田楽(でんがく)

 

ここに様々な詩歌や民俗芸能が加わり、基礎ができたといいます。その中でも観阿弥と世阿弥が猿楽を発展させたため、今日の能は猿楽が中心となっているようです。

 

三番叟は、猿楽の式三番という五穀豊穣を願う3つの演目のうちの3つ目にあたるのですが、それが三番叟と呼ばれるようになったのは室町時代以降のことのようです。古くは三番猿楽と呼ばれていて、前2つが神や長(おさ)をイメージした演目であるのに対し三番叟は農民をイメージした演目であるとされ、軽快なお囃子と躍動感のある舞踊が特徴だったようです。

ゆえに、江戸時代になると歌舞伎、日本舞踊をはじめ、常磐津、長唄、義太夫などにも取り入れられ、「三番叟」の名が冠される演目が次々に登場し、現代に至るようです。

 

清元の三番叟では、能の舞台では中心で踊る父尉(ちちのじょう)と、同じく能の舞台ではワキの千歳(ちとせ)が登場し、それぞれ黒い面をつけた「尉(じょう)」と面箱を持つ「相人(あど)」という名で舞踊を披露します。

 

歌詞も「五穀豊穣」「七五三」「婚礼」・・・・・と、ひたすら目出度い言葉で埋め尽くされています(笑)

 

尉(じょう)と相人(あど)の問答も聞き所ですよ!


 

種蒔三番叟

作詞 二代目 桜田治助  作曲 伊藤東三郎

 

おおさえ おおさえ 喜びありや喜びありや 我がこの所より 他へはやらじと思う
にせむらさきも なかなかに 及ばぬ筆に写し絵も いけぬみぎわの石亀や
ほんに鵜の真似 烏飛び とっぱひとえに有難き 花のお江戸の御贔屓(ごひいき)を
かしらに重き立烏帽子(たてえぼし)

尉 「あら目出度や ものに心得たる 相人の太夫殿に そと げんぞう申す」
相人「ちょうど参って候」
尉 「相人の太夫殿を お見立て申して候」
相人「何とご覧じ候ぞ」
尉 「福人とお見立て申して候」
相人「又色の黒き尉殿をお見立て申して候」
尉 「なんとご覧じ候ぞ」
相人「徳人とお見立て申して候」
尉 「仰せの如く徳人の中にても子徳人にて候 十人の子供等を車座にならべ 一時に名をつけて候」
相人「なんと御付け候ぞ」
尉 「まつ おっとり ちがえ おとよ けさよ たつ松 ゆる松 だんだらいなごに かいつく ひっつく
   火打ち袋にぶらりっとつけて候」
相人「あら目出度や その和子達の祝い月 一段と賑わしきことに思われて候」
尉 「まづ相人の太夫殿には重々と元の座へ 御直り候え」
相人「まづ尉殿には一舞い御舞い候へ」
尉 「いいや いや御直りのうては 舞い候まじ」
相人「いやいや 御舞い候へ」
尉 「いいや 御直り候へ」
相人「あら ようがましや さあらば鈴を参らしょう こなたこそ」

天の岩戸のな 神楽とて 祝うほんその歳も 五つや七三つ見しょうと 縫いの模様の 

いとさまざまに竹に八千代の壽こめて やらやら目出度いのえん 四海波風おさまりて 

常磐のえん 木の葉も茂るえいさらさ 鯉の瀧登り 牡丹に唐獅子唐松の 見事に見事に 

さっても見事に手をつくし 仕立て栄えあるよい子の小袖 着せてきつれて参ろかの 

肩ぐるまにぶん乗せて 乗せてまいろの氏神詣で きねが鼓のでんつくでん 

笛のひしぎの音も冴えたりな 冴えた目元のしおらしき 中のなかの中むすめを 

ひたつ長者が 嫁にほしいと望まれて 藤内次郎が栃栗毛に乗って えいえいえい えっちらおっちら わせられたんので その意に任せ申した すぐにもあがり お目見得を またこそ願う種蒔や 

千秋萬歳萬々歳の末までも 賑おう芝居と舞い納む