清元國惠太夫とは

清元國惠太夫近影

 清元 國惠太夫(きよもとくにえだゆう。本名:中島幹太)とは歌舞伎浄瑠璃の1つである清元節の浄瑠璃方を務める太夫です。

1981年東京生まれ。3歳から実父である花柳知蔵(はなやぎともぞう)に師事し、日本舞踊を学びました。96年に清元節へ入門し、清元菊輔(きよもときくすけ)に師事します。01年に國惠太夫の名を許されたのち、現在まで活動しています。

主な出演公演に「市川海老蔵襲名公演」、「中村勘三郎襲名公演」などがあり、その他、NHKを中心にテレビ、ラジオなどにも出演しています。

07年より清元節普及のため個人活動を始め、Sou-Zou工房四季として「やのくら音楽会」を定期開催。國學院高校歌舞伎同好会講師も務めています。

小学校や中学校での体験教室開催や、職業講話パネリストとしても活動し、世代を問わずに広く歌舞伎浄瑠璃に親しんでもらう活動をしています。

やのくら音楽会の様子 大森第三中学校での浄瑠璃鑑賞教室の模様 常磐松小学校の音楽朝会で演奏している模様 國學院高校歌舞伎同好会が文化祭で発表をしている様子

歌舞伎とは

 戦国時代の終わりごろから江戸時代にかけて、若者の間で広まった派手なファッションや言動を「かぶく(傾く)」といい、そういう振る舞いを行なう人を「かぶき者」といいました。

 歌舞伎は、そういった「かぶき者」たちの独創的なダンスから始まったとされており、そのさきがけとなったのが「出雲阿国」(いずものおくに)と言われています。

 出雲阿国の人気は京都を中心に広がっていき、さまざまなところで似たような見世物を上演する人たちが現れました。そういった人たちの中には、当時の上流階級だけが見ることのできた能楽や、舞踊のストーリーなどを元に、人々が夢中になるような劇を作るものもいて、またたく間に庶民の人気を集めていきました。

 江戸から明治に変わり、それまで保護されてきた文化芸能が再編されると、当時の九代目市川団十郎が世相などを鑑みて、大衆文化だった歌舞伎を芸術性の高いものとして位置づけ始めます。

 それから100年あまりを経て、歌舞伎は現在のような伝統芸能として存在するようになりました。

歌舞伎浄瑠璃とは

 歌舞伎に影響を与えた能楽には、笛や太鼓といったお囃子(はやし)があったため、歌舞伎でもストーリーを構成する三味線音楽ができました。

 三味線音楽には、大きく分けて「語り物」と「唄(うた)い物」があります。「語り物」は歌よりもストーリーを語って聞かせることに特化しています。それに対して「唄い物」はテンポがほぼ一定で、伴奏的な役割のことが多い傾向にあります。「唄い物」が音楽全体の一部であることを重視するのに対し、「語り物」は歌詞の内容が聞き手に伝わることを重視し、メロディやリズムは付属するという考えが強いものです。

 歌舞伎浄瑠璃(かぶきじょうるり)は、「語り物」に属し、その名のとおり、歌舞伎などの舞踊において物語の部分を語って聞かせるものです。

清元節とは

 歌舞伎が生まれてから約200年後の世界。すっかり大衆の娯楽として歌舞伎が受け入れられ、たくさんの有名な演目が出揃った1814年のころ、ひとりの浄瑠璃語りが「より面白く、より軽妙に浄瑠璃を語りたい」と思っていました。 彼の名前を清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)といいます。浄瑠璃のひとつである富本節(とみもとぶし)に所属する太夫でしたが、「より楽しめる浄瑠璃をやりたい」と、清元節という新たな流派を起こしたのでした。

 それまでの歌舞伎浄瑠璃と違い、延寿太夫の浄瑠璃は高音で伸びがあり、リズム感のよい粋なものだったことから、当時の江戸庶民に大流行しました。