「隅田川」について(なみだ、涙の物語)

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こんにちは。くにえです。

 

今回は前回にお知らせさせていただいた京都南座・吉例顔見世興行の演目、清元「隅田川」について解説させていただきます!

(前回ブログ http://kuniedayu.com/blog/2011/11/post-117.html )

 

 

この曲は本名題も通称も「隅田川(角田川)」といいます。

 

作詞を日本画家で有名な鏑木清方の父、条野採菊(じょうのさいきく)。作曲を二世清元梅吉が担当し、明治16年(1883年)に作詞者の条野採菊の邸宅で素浄瑠璃として開曲しました。

 

もともと、室町期に出来たとされる謡曲(能の詞曲)の「隅田川(角田川)」を改作したもので、当時、遊里や町の風景など、庶民の目線からの作品が多い清元が非難を浴びた時期があり、その脱却から謡曲の改作をして作られた異色の名曲です。

 

 

 

◆くにえの曲説明

 

 

隅田川の渡し守(船頭)が船出の準備をしているところへ都の北白川(京都)より逸れてしまった幼い子供を捜しているという女性に出会います。

この女性は髪も乱れ、もはや常人ではない様子でした。

 

この狂女は渡し守に子供の話をし、誘われるがままに舟に乗ります。

 

舟を川に出して少しのところ、狂女が向こう岸の柳の木の下で人が集まり、念仏を唱えている場面を

目にします。

狂女は渡し守に問うと、渡し守はその経緯を語るのでした。

 

「去年、都より人買いが幼い子供を買取った。慣れない旅にその幼い子は疲れ果て、この川岸に

倒れこんでしまったのだ。情け容赦ない人買いは、その幼い子供をそのまま捨て置き消えてしまった。人々は哀れに思って労わった。

故郷を問うと、都の白川と言う。父親の名を問うと、吉田という。

そうしてその身形の良い幼い子は草葉の露となってしまった。」

 

その話を聞いた狂女は渡し守に聞きます。

 

狂「それはいつごろのことですか?」

渡「去年3月。それも今日のことだ。」

狂「その子の歳は?」

渡「たしか12歳だった。」

狂「その名は?」

渡「梅若丸」

 

狂女は泣き伏せてしまいます。その子供こそ、この狂女の探していた我が子だったのです。

 

渡し守は哀れに思い、狂女を向こう岸の柳の下、梅若丸の眠る塚へと導くのでした。

 

月の夜。隅田川の波風と共に念仏を唱えます。

「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏・・・・・・・・・」

 

その時。

念仏の中に梅若丸も共に「阿弥陀仏」と唱えた声が狂女の耳に聞こえます。

 

狂女は梅若丸の眠る塚を抱きしめ、再び泣き伏せてしまうのでした。

 

 

原詞  「ついと塒(ねぐら)を たつ白鷺の のこす雫か 露か涙か」

 

 

やがて鐘の音が鳴り、空が明けてきます。        幕

 

 

 

 

この隅田川はこのようなバットエンド?で終わるのです。

 

(「ついと~」の舟唄は初演には無く、明治41年に開かれた演奏会の折、五世清元延寿太夫が付け加えました。)

 

 

くにえはこの曲がとても好きです。

 

最初の歌詞に

「実にや人の親の 心は闇にあらねども 子を思う道に迷うとは」

という文句があります。

 

どの時代でも子供を思う親の気持ちとは、何ものにも変えられない深いものがあるのだと、くにえは思います。

 

 

今日はママと一緒にお寝んねしよーかな(笑)

 

 

清元 國惠太夫

 

 

参考文献

清元全集(日本音曲全集)・宗家直伝清元集(上巻ノ三)