これや累(かさね)の名なるべし

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こんにちは。くにえです。

 

今回は、今新橋演舞場で興行を打っている歌舞伎の一幕「累(かさね)」について簡潔に書きたいと思います。

 

累は1600年台、江戸幕府が開かれて間もない頃の実話が元と言われています。

茨城県常総市羽生町の法蔵寺というお寺に累やその一族の墓や遺品が残っています。

 

法蔵寺の画像が載っているページを見つけました。 

法蔵寺・累の墓

 

この法蔵寺に残る実説です。

堀越与右衛門(初代)に所に、すぎは助(すけ)という連れ子と共に嫁入りしました。

この連れ子の助は片足が悪い上に顔が醜く与右衛門に邪魔者扱いされ、6つの歳に鬼怒川の岸で母親に

殺されてしまいます。

やがて夫婦の間に女児が生まれますが、親の因果で片目で足の悪い不器量者でした。

名前を「お累(おるい)」と名付けましたが近所では「累なる(かさなる)因果」という意味を含めて

「累(かさね)」と呼ぶようになりました。

累がある時、病気の旅人を看病したことが縁でその旅人を二代目与右衛門として夫婦になりました。

しかし、この与右衛門は累の醜さに嫌気がさし、他の女と一緒になるため、豆刈りの帰り、夕暮れ時の鬼怒川へ突き落として殺してしまいます。

 

そ知らぬ顔で与右衛門は幾人の妻を娶りますが、これも因果か夫婦仲は円満ではありませんでした。

そして最後に結婚した「おきよ」との間に菊という女児が生まれます。

この菊に累や助の怨霊が乗り移り、先の累殺しや初代与右衛門夫婦の助殺しなどを語りだし、罪を暴いてしまうという内容です。

 

因みにその菊の怨霊を祓った人物が「祐天上人(ゆうてんじょうにん)」といって、現在の東急東横線の駅名にもなっている「祐天寺」を開山して、累たちの霊を弔ったとされています。

 

因みついでにもう1つ。

祐天寺には「累塚」があります。現在の塚は清元「累」を再演した際、累役の六代目尾上梅幸(ばいこう)・与右衛門役の十五代目市村羽左衛門(うざえもん)・浄瑠璃の五代目清元延寿太夫の三者で寄進されました。

 

現在でも歌舞伎なので「累」を上演する際、主だった関係者で累塚にお参りします。

 

 

清元「累」

本名題を「色彩間刈豆(いろもようちょっとかりまめ)」と言います。

この「刈豆」の部分は上記の実説で豆刈りの後に累を殺しているところから取ったとされています。

 

文政6年(1823)6月、江戸森田座で鶴屋南北作「法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)」の2幕目に初演されました。

劇自体はしばらく上演されませんでしたが、大正9年(1920)12月に上記の三者で再演という運びになりました。

以後、清元の代表作の1つとなったわけです。

 

芝居の内容としては武士の与右衛門が腰元の累を殺そうと道行になります。

この与右衛門は悪党で、累の母とも愛人関係にあり、その上に夫の助を鎌で殺しているのでした。

何も知らない累は愛する与右衛門と共に木下川堤(きねがわづつみ)までやってきます。

そこに助のドクロと鎌が流れてきます。

与右衛門が鎌をとった瞬間、助の怨念で累の顔がみるみる醜悪になります。

そこで与右衛門は本性を見せ、累にその鎌を振りあげ切り殺すという内容です。

 

残酷な物語です(汗)

 

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今月の「累」の幕前直前の舞台写真です。

とても見ごたえのある舞台です。

 

是非ご覧下さい!

 

 

清元 國惠太夫