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清海波 プチ解説&歌詞

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こんにちは。くにえです。

 

今回は清元「清海波」のプチ解説と歌詞をお送りいたします。

 

 

この記事は4~5分ででお読みいただけます。

 

 

 

清海波(せいがいは)

 

 

 

 

解 説

 

作詞 永井素岳  作曲 二世清元梅吉(部分作曲 五世清元延寿太夫)

初演 明治30年(1897年)6月20日、両国中村楼

 

この曲は五世清元延寿太夫名披露目の会で開曲され、素演奏のため本名題はありません

初代清元延寿太夫の定紋が「青海波」だったこと、初代の前名「豊後路清海太夫(ぶんごじきよみだゆう)」を名乗っていたことに因み清元では「清海波」とも書きます。

 

終盤の部分「ヤンラ月の名所・・・」を舟唄と言い、五世延寿太夫が新潟の追分にヒントを得て作曲したと伝わります。

 

 

 東北より順に日本の名高い海の名称を始めとして、神話、七夕などの物語、流行り唄、春夏秋冬の季節などを取り入れた歌詞になっています。

 

 

歌 詞

 

神代より光り輝く日の本や 干珠満珠の世語りを

今に伝えて陸奥(みちのく)の 千賀の塩竈 煙りたつ

霞に明けし松島の 眺めはつきぬ春の日の

潮の干潟をゆく袖に うつす薫りも懐しき

梅の花貝 桜貝 みるめの磯のあかぬなる

花のあと踏む夏山の 筑波が覗く船の中

 

逢瀬の浦の ささめごと いつか浮名も立浪の

うち込んでいる真心に 待つとは恋の謎々も

解けた素顔の夏の富士 清見の沖や三保が崎

まつに本意なき青東風に 憎や葦辺の片男波

その通い路は星合いの 中かけ渡す かささぎの

天の橋立 きれ戸とは 裏表なる播磨潟

汐汲む海女のしるしとて みどりの秋を残したる

恋は昔のうたひもの

 

あら めで鯛は神の代に 赤目と召され そめしより

蛭子の神の釣り上げし 二世の かため の懸鯛に

縁しを繋ぐ諸白髪 若やぐ尉(じょう)と うば玉の

闇の景色は漁火の ちらり ちらちら月の出汐に

網引の声の 節も拍子も一様に

 

ヤンラ月の名所は よそほかに 鳴いて明石の浜千鳥

ヤサホウ ヤサホウ 主に淡路は気にかかる

室の泊りを ソレ松帆の浦よ ヤサホウ エンヤ ヤサホウ エンヤ 面白や

 

波も静かに 青きが原を中にひかえて住吉と 名も高砂の夫婦松

雪にもめげぬ深みどり 栄ゆく家の寿を

なほ幾千代も延ぶるなる 直ぐな心の清元と

めでたく祝ふ泰平の 君が余沢ぞありがたき 

 

 

 

 

 

参考資料
清元全集 清元集 清元五十番

 

 

  

 

 

 

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清元 國惠太夫

三社祭 プチ解説&全曲歌詞

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こんにちは。くにえです。

 

今回は清元「三社祭」のプチ解説と歌詞をお送りいたします。

 

 

この記事は6~7分ででお読みいただけます。

 

 

 

三社祭(さんじゃまつり)

 

 

解 説

 

作詞 二代目瀬川如皐  作曲 初代清元斎兵衛(清元栄治郎説有り)

初演 1832年(天保3年)3月 江戸中村座

 

本名題を「弥生の花浅草祭(やよいのはな あさくさまつり)」と言い、通称を「三社祭」と表します。

かつては登場人物より「善玉悪玉」と言っていました。

題に弥生とあるのは三社祭は元々3月に行われていたことに由来します。

 

 

本来この狂言は

上「神功皇后と武内宿禰」(常磐津)

下「善玉悪玉(三社祭)」(清元)

と分かれていて、上は山車人形として人物の登場する三社祭の場、下は宮戸川で漁をする兄弟の場です。

 

上記の通り、清元の場面は直接お祭りとは関係ない場なのですが、近年単体で上演される事が多くなり「三社祭」の通称が定着したものと考えられます。

 

登場人物は三社祭のルーツである「檜前浜成(ひのくまのはまなり)檜前竹成(ひのくまのたけなり)」の兄弟の漁師です。

※三社祭のルーツの詳しい内容は浅草観光連盟様HPをご覧ください。

 

 

ある日宮戸川(隅田川の一部)で檜前兄弟が漁をしていると空から「善玉」と「悪玉」が乗り移ってしまい、悪玉が昔の悪人たちを語るという筋です。

 

この「善玉」「悪玉」というものは、当時流行した「心学」という一種の道徳思想で、人間の善い行いも悪い行いも「玉」が憑りついて操っているという考えです。

「三社祭」は漁師兄弟が浅草観音を拾い上げた伝説と流行の心学をミックスした当時の最先端をゆくエンターテイメントだったのでしょう!

 

 

 

 

 

歌 詞

 

弥生なかばの花の雲 鐘は上野か浅草の

利生は深き宮戸川 誓ひの網のいにしえや 三社祭の氏子中

 

もれぬ誓ひや網の目に 今日の獲物も信心の

おかげお礼に朝参り 浅草寺の観世音

網の光りは夕鯵や 昼網夜網に凪もよく乗込む

河岸の相場に しけは 生貝生鯛生鰯

なまぐさばんだばさらんだ わびた世界じゃないかいな

そなた思えば七里が灘をのう 命ゃ捨て貝い来たものなしかえ戻ろうよ

捨て貝来たもの命ゃ 命ゃ捨て貝来たものなしかえ戻らうよ

サァサ何んとしょか どしょかいな

撞いてくりゃんな八幡鐘よ 可愛いお人の 人の目をさます

お人の人の可愛い 可愛いお人の 人の目をさます

サァサ何としょか どしょかいな 帰りましょ 待たしゃんせ

憎や烏が啼くいな 斯かる折から虚空より

風なまぐさく身にしむる呆れて暫し両人は 大空きっと見あぐれば

 

「善か悪かの二つの玉」

「あらはれ出でたは」

「こいつは」

「稀有だわえ」

 

あーら 不思議やな 一つ星なら長者にも ならんで出たる二ない星

あらはれ出でたる二つ玉 思ひがけなく落散る風の

ぞっと身に沁みうろたへ伏し悶絶するこそ

悪にとっては 事もおろかや 悪七別当 悪禅師

保元平治に悪源太 梶原源太は梅ケ枝を

蛭の地獄へ落したためしもありとかや

これは昔の物語

それが嫌さに気の毒さに おいらが宗旨はありがたい

弘法大師のいろはにほへと 変わる心はからくり的

北山時雨じゃないけれど 振られて帰る晩もあり それでお宿の首尾もよく

とかく浮世は儘にはならぬ 善に強きは コレ善の綱

牛に曳かれて善悪は 浮かれ拍子の一踊り

 

早い手玉や品玉の 品よく結ぶ玉襷 かけて思ひの玉櫛毛

開けて口惜しき玉手箱 かよふ玉鉾 玉松風の

もとはざざんざで唄えや唄えや うかれ烏の烏羽玉や

うややれ やれやれ そうだぞそうだぞ 声々に

しどもなや

唄うも舞うも 法の奇特に善玉は 消えて跡なく失せにけり

 

 

 

 

参考資料
清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

 

 

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清元 國惠太夫

 

玉屋 プチ解説&歌詞

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今回は清元「玉屋」のプチ解説と歌詞をお送りいたします。

 

 

この記事は5~6分ででお読みいただけます。

 

 

 

玉屋(たまや)

 

 

解 説

 

作詞 二代目瀬川如皐  作曲 初代清元斎兵衛(清元栄治郎説有り)

 

初演 天保3年(1832年)7月。江戸中村座

 

本名題を「おどけ俄煮珠取(おどけにわかしやしゃぼんのたまとり)」、通称を「玉屋」と言います。

 

元々は二代目中村芝翫が四変化で踊ったものの一幕として上演されていました。また四幕ともすべて「玉」に関連する題材を扱っていました。

 

  恵比須         長唄

  竜王          長唄

  珠取海女        長唄

  しゃぼん玉売り(玉屋) 清元

 

 

主人公は当時の人々には貴重で珍しい「シャボン玉」を吹いて見せるという大道芸人です。

 

冒頭の歌詞

「さぁさ 寄ったり 見たり 吹いたり 評判の 玉屋」と、子供や近所の人を集めるための売り声。

この売り声には「4ったり 3たり 2いたり 1ょうばん」と洒落て数字が隠されています。

 

当時にカウントダウンという概念があったかは謎ですが、お客を集めてシャボン玉を吹く景気付けにはなっていたのかもしれません(笑)

 

現在では思いもつかない職業ですが、「玉」に関連するものを歌詞に多く盛り込んでいて、当時の江戸庶民の文化や風俗を紐解くきっかけになっているという学者さんも居るくらいに江戸の空気を感じれるのではと思います(≧▽≦)

 

 

 

 

 

歌 詞

 

さぁさ寄ったり見たり 吹いたり評判の玉屋玉屋

商う品は八百八町 毎日ひにちお手遊び 子供衆寄せて辻々で

お目に掛値のない代物を お求めなされと辿り来る

 

玉屋「さあさあ評判評判 お子さま方のお慰み

   何でもかでも吹き分けてご覧に入れましょう

   先ず玉の始まりは」

 

今度仕出しじゃなけれども お子様方のおなぐさみ

ご存じ知られた玉薬

鉄砲玉とはこと変わり 当たって怪我のないお土産で

曲は様々 大玉小玉吹き分けは その日その日の風次第

まず玉尽くしで言おうなら たまたま来れば人の客

などとじらせば口真似の こだまもいつか呼子鳥

たつきも知らぬ肝玉も しまる時にはそろばん玉の

堅いおやじに輪をかけて 若いうちから数珠の玉

オットとまった性根玉 しゃんとそこらでとまらんせ

とまるついでにわざくれの 蝶々とまれをやってくりょ

 

蝶々とまれや菜の葉にとまれ 菜の葉いやなら葭の先へとまれ

それとまった 葭がいやなら木にとまれ

 

つい染み易き廓の水 もし花魁へおいらんと

言ったばかりで後先は

恋の暗闇辻行燈の 陰で一夜は立ち明かし 格子のもとへも幾度か

遊ばれるのは初めから 心で承知しながらも

もしやと思うこけ未練

昼の稼ぎも上の空 鼻の先なる頬かむり

 

吹けば飛ぶよな玉屋でも お屋敷さんのお窓下

犬にけつまずいて オヤ馬鹿らしい

 

口説きついでにおどけ節 伊豆と相模はいよ国向かい

橋を架きょやれ船橋を 橋の上なる六十六部が落っこった

笈は流 るる錫杖は沈む 中の仏がかめ泳ぎ 坊さん忍ぶは闇がよい

月夜にはあたまがぶらり しゃらりと

のばさ頭がぶらりしゃらりと こちゃ構やせぬ

衣の袖の綻びも構やせぬ しどもなや

 

折も賑う祭礼の 花車の木遣りも風につれ

オーエンヤリョー

いとも畏き御代に住む 江戸の恵みぞありがたき

 

 

参考資料
清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

 

 

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清元 國惠太夫

 

雁金 プチ解説&歌詞

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今回は清元「雁金」のプチ解説と歌詞をお送りいたします。

 

 

この記事は4~5分ででお読みいただけます。

 

 

 

雁金(かりがね)

 

 

解 説

 

作詞 河竹黙阿弥 作曲 二世清元梅吉

初演 明治14年(1881年)11月。東京新富座。
 
本名題 色増栬夕映(いろまさるもみじのゆうばえ)。通称を「雁金」といいます。
 
この曲は「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」の三幕目「神楽坂 望月輝の妾宅の場」で妾の弁天お照との色模様を扱った作品です。
望月輝とお照が、隣から聞こえる清元や鈴虫の音を聞いて互いの身の上を語り合うという艶っぽい内容です。
 
現在では芝居の筋立てに関係なく、女性1人で恋人を待つという内容で舞踊化されたりする事の多い名作です。
因みに
二世清元梅吉はお京(都一いな)を後妻と迎えました。
この女性は「一中節」の名手でその影響もあってか、この雁金には一中節の型が色濃く反映されています。
 
 
 

 

 

歌 詞

 

 
 
 
雁金を 結びし蟵(かや)も 昨日今日
残る暑さを忘れてし 肌につめたき風たちて
ひるも音をなく蟋蟀に 哀れを添える秋の末
我が身一つにあらねども 憂きにわけなきことにさへ
露の涙のこぼれ萩 くもりがちなる空ぐせに
夕日の影の薄紅葉 梅も桜も色かえる
中に常磐の松のいろ
 
まだその時は卯の花の 夏のはじめに白河の
関はなけれど人目をば 厭ふへだての旅の宿
飛び交う蝶に灯の 消えて若葉の木下闇
おもはぬ首尾にしっぽりと 結びし夢も短夜に
覚めて恨みの明の鐘
 
空ほの暗き東雲に 木の間がくれのほととぎす
鬢のほれをかきあぐる 櫛の雫か しづくか露か
濡れて嬉しき朝の雨 はや夏秋もいつしかに
過ぎて時雨の冬近く 散るや木の葉のばらばらと
風に乱るる萩すすき 草の主は誰ぞとも
名を白菊の咲出でて 匂ふ此家ぞ知られける

 

 

 

参考資料
清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

 

 

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清元 國惠太夫

 

四季三葉草 プチ解説&歌詞

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こんにちは。くにえです。

 

今回は清元「四季三葉草」のプチ解説と歌詞をお送りいたします。

 

 

この記事は6~7分ででお読みいただけます。

 

 

 

四季三葉草(しきさんばぞう)

 

 

解 説

 

開曲は1838年(天保9年)夏。

素浄瑠璃として作られたために本名題はありません。

 

作詞者は三枡屋二三治(みますやにそうじ)、作曲者は二世清元斎兵衛。

二世清元延寿太夫が初語りをしたと言われています。

 

名前の読み通り「式三番叟」の歌詞を四季の草花の名前と語呂を合わせして作られました。

 

冒頭部分には謡曲(能)の「翁」を引用して重厚感を演出します。

ちなみに

「とうとうたらり たらりら たらりあがり ららりとう」

これが冒頭部分の歌詞なのですが日本語ではない感じがします(;'∀')

 

調べると歌詞のルールには諸説ある様です。

 

・チベット地方(サンスクリット語)をそのまま引用した説

・仏教のお経を引用した説

・笛の楽譜説

などなど

 

現在でもいくつか説があるようです。

 

曲の歌詞に「」「」「」「」のパートがございますので、下記の歌詞に色を付けておきたいと思います(/・ω・)/

 

歌 詞

 

とうとうたらり たらりら たらりあがり ららりとう

ところ千代まで 変らぬ色の みどりたつ春 まつの花

曽我菊の名も翁草 そよやいづくの花の滝

玲々と落ちて水の月 素袍(すおう)の袖も千歳(せんざい)の

梅が香慕とう うぐいすも 初音床しきわが宿の 竹も直なる一節に

うつして四季の三葉草 立舞う姿いと栄(は)えて

桃は初心に柳はませた 風の縺れ(もつれ)に解けかかる こちゃ海棠(かいどう)つぼみのままよ

うら山吹に若楓 藤色衣 主とても かざす袂の桜狩 その盃の数よりも

 

おおさえ おおさえ 喜びありや 喜びありや 幸ひこころに任せたり

 

千早振る神の昔に あらなくに 卯の花垣根白浪の 渚の砂(いさご)さくさくとして

あしたの花の富貴草

女子ごころは芍薬(しゃくやく)に 思うたばかり姫百合の まだ葉桜も染めぬのに 

そりゃあんまりな梨の花 気も石竹に軒の妻 菖蒲も知らで折添へて いつか手生けの床の花

元の座敷へおもおもと お直り候らえ ようがましや さはらば一枝参らしょう そなたこそ

君が由縁の色見草 うつろう水に杜若(かきつばた) 池のみぎわに鶴亀の 縁し嬉しき踊り花

 

女郎花 宵の約束小萩が許で 尾花招けば糸薄(いとすすき)通ふ心の百夜草(ももよぐざ)

こちゃこちゃ真実 愛おしらし そうじゃいな しほらしや

時雨の紅葉寒菊や 水仙清き枇杷の花 花の吹雪のサラサラさっと

山茶花や 恵みに花の勲しは 千代に八千代の玉椿

眺めつきせぬ花の時 今も栄えて清元の 治まる家とぞ祝しける

 

 

参考資料
清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

 

 

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清元 國惠太夫

 

落人 プチ解説&歌詞

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こんにちは。くにえです。
 
今回は清元「落人」の解説&歌詞を書きたいと思います。
 
 
 
 

 

 

この記事は7~8分ででお読みいただけます。

 

 

 

落人(おちうど)

 

 

解 説

 

 

本名題を「道行旅路花聟(みちゆきたびじのはなむこ)」といいます。
1883年(天保4年)3月に江戸河原崎座で初演。
 
「仮名手本忠臣蔵」の大ヒットにより場面を「表裏」で増やし、この落人は三段目の裏と称して「早野勘平」と「腰元お軽」の道行物として上演されました。
 
作詞は三升屋二三治、作曲は初世清元榮次郎(清元斎兵衛、二世清元延寿太夫との説も有り)。

初演時の配役は勘平を七世市川海老蔵、お軽を三世尾上菊五郎、鷺坂伴内を尾上梅五郎です。
 
 
 
勘平とお軽は罪人となって共に落ち延びて行かねばならなくなりました。

塩谷判官(浅野内匠頭)の登城の供として選ばれた勘平でしたが、恋仲であるお軽が逢いに来てしまいます。
途中鷺坂伴内に絡まれてしまいますが何とか切り抜けます。
しかし時間を要してしまい、勘平はお供に遅れてしまうのでした。
 
その塩谷判官は高師直(吉良上野介)を殿中で斬りつけるという事件が発生してしまいます。
 
自らの色事で主君の大切な場に居合わせる事が出来なかったら勘平は大いに悔やみ、自害を試みます。

そこでお軽が説得に努め、一先ず自分の里へと「落ち人」となって道行をする事になるのでした。
 


場面は道行の途中、戸塚の山中です。
 
落ち延びる二人は人目を忍ぶために夜に歩き続けます。
途中松かげで休憩をしながら自分たちの馴れ初めや勘平の自害にはやる行動をお軽は諫めます。

 

 

そこへ江戸よりの追手「鷺坂伴内」らと遭遇し戦いになります。

 

この戦いの部分は「鳥ずくし」の掛け言葉と軽快なリズムが聴きどころです。
(※下記の歌詞に掛かっている言葉も色を変えて掲載しますのでご参照ください!)
 
無事伴内らを追い返し、二人は旅を急ぐのでした。
 

 

 

ちなみに舞台では美しく観えるようにライトを煌々とつけておりますが、話の筋では夜中から明け方にかけての時間帯です(笑)
 
 
 
 
 
 
 

歌 詞

 
 
 
 

落人も見るかや野辺に若草の すすき尾花はなけれども
世を忍び路の旅衣 着つつ馴れにし振袖も
どこやら知れる人目をば かくせど色香梅が花
散りてもあとの花のなか いつか故郷へ帰る雁
まだはだ寒き春風に 柳の都 後に見て
気も戸塚はと吉田ばし 墨絵の筆に夜の富士
よそめにそれと影くらき 鳥のねぐらを辿り来る

 
勘平「鎌倉を出でてようようと ここは戸塚の山中 石高道で足は痛みはせぬかや」
お軽「何の まあそれよりは まだ行先が思はれて」
勘平「そうであろう 昼は人目をはばかる故」
お軽「幸い ここの松かげで」
勘平「暫しがうちの足休め」
お軽「ほんにそれが よかろうわいなぁ」
 
 
何もわけ無き うさはらし 憂きが中にも旅の空
初ほととぎす明近く
 
色で逢いしも昨日今日 かたい屋敷の御奉公
あの奥様のお使いが 二人がえんやの御家来で
その悪縁か白猿に よう似た顔の錦絵の
こんな縁しが唐紙の 鴛鴦(おし)の番(つがい)の楽しみに
 
泊り泊りの旅籠やで ほんの旅寝の仮枕
嬉しい仲じゃないかいな 空定めなき花曇り
暗きこの身のくり言は 恋に心を奪はれて
お家の大事と聞いたとき 重きこの身の罪科と
かこち涙に目もうるむ
 
 
勘平「よくよく思へば後先のわきまえもなく ここ迄は来たれども 主君の大事をよそにして
   この勘平はと ても生きては居られぬ身の上 其方は言はば女子の事 
   死後の弔ひ頼むぞや お軽さらばじゃ」
お軽「アレまたその様な事言はしゃんすか 私故にお前の不忠 それがすまぬと死なしゃんしたら
   わたしも死ぬるその時は アレ二人心中じゃと 誰がお前を褒めますぞぇ
   サぁここの道理を聞き分て ひとまず私が在所へ来て下さんせ 父さんも母さんも
   それはそれは頼もしいお方 もうこうなったが 因果じゃと諦めて
   女房の言ふ事も ちっとは聞いて呉れたがよいわいなぁ」
 
 
それ其時の うろたえ者には誰がした みんなわたしがこころから
死ぬるその身を長らえて 思ひ直して親里へ 連れて夫婦が身を忍び
野暮な田舎の暮しには 機も織りそろ賃仕事 常の女子と言はれても 取乱したる真実が
やがて届いて山崎の ほんに私がある故に 今のお前の憂き難儀 堪忍してとばかりにて
人目なければ寄り添うて 言葉に色をや含むらん
 
 
勘平「成程聞き届けた それ程迄に思うて呉れるそちが親切 ひとまず立ち越え
   時節を待ってお詫びせん」
お軽「そんなら聞き届けて下さんすか」
勘平「さぁ仕度しやれ」
お軽「アイ」
 
 
身ごしらえするその所へ
 
 
伴内「見付けた おぉ お軽も居るな やーやー勘平
   うぬが主人の塩谷判官高貞と おらが旦那の師直公と
   何か殿中でべっちゃくちゃ くっちゃくちゃと話合するその中に
   ちいちゃ刀をちょいと抜いてちょいと斬った科によって
   屋敷は閉門網乗物にて エッサッサ エッサッサ エッサエッサエッサッサと
   ぼっ帰してしもうた
 
   さあこれ烏(からす)鶉翻(うずらばん)
   さあこれからは うぬが番
   お鴨をこっちへ鳩鷺(はとさぎ)葭切(よしきり)
   お軽(かる鴨)をこっちへ 渡さば良し
   ひわだ雁(がん)だと孔雀が最後
   嫌だ何だとぬかすが最後
   とっ捕めっちゃ ひっ捕めっちゃ
   やりゃあしょねえが返答は さっ さっ さっさっ さささささ・・・
   勘平返事は丹頂丹頂(たんちょうたんちょう)」
        何と何と
 
 
丹頂丹頂と呼ばわったり
勘平ふふっと吹きいだし
 
 
勘平「よい所へ鷺坂伴内 おのれ一羽で食い足らねど 勘平が腕の細ねぶか
   料理あんばい 喰うてみよえぇ」
 
 
大手を拡げて立ったりける
 
 
伴内「えぇ 七面鳥な もちで捕れ」
      しち面倒くさい
花四天「どっこい」
 
 
桜さくらという名に惚れて どっこいやらぬはそりゃ何故に
所詮お手には入らぬが花よ そりゃこそ見たばかり
それでは色にはならぬぞへ 桃か桃かと色香に惚れて
どっこいやらぬはそりゃ何故に 所詮まままにはならぬが風よ
そりゃこそ他愛ない それでは色にはならぬぞ へ
 
 
勘平「さぁこうなったらこっちのもの 耳から斬ろか 鼻からそごうか
   えぇもう一層の事に」
お軽「あ もしっ そいつ殺さばお詫びの邪魔 もうよいわいなぁ」
伴内「へへ もうよいわいなぁ」
 
 
口の減らない鷺坂は 腰を抱えてコソコソと 命からがら逃げてゆく
 
 
勘平「彼を殺さば 不忠の上に重なる罪科 
   最早明け方」
お軽「アレ山の端の」
勘平「東がしらむ」
二人「横雲に」
 
 
塒をはなれ鳴くからす 可愛い可愛いの女夫づれ
先は急げど心は後へ お家の安否如何ぞと
案じゆくこそ道理なれ
 
 
 
 
 

参考資料
清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

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清元 國惠太夫

花紅葉士農工商(文売り)プチ解説&歌詞

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こんにちは。くにえです。

 

今回は清元「文売り」をご紹介したいと思います(/・ω・)/

 

 

この記事は5~6分ででお読みいただけます。

 

 

 

文売り(ふみうり)

 

 

解 説

 

 

この曲は1820年(文政3年)11月に江戸玉川座で上演されました。

本名題を「花紅葉士農工商(はなもみじしのうこうしょう)」、通称を「文売り」と言います。

作詞者は近松門左衛門、作曲者は清元斎兵衛です。

 

元来は本名題にもあるように「士」「農」「工」「商」にそれぞれ見立てた四変化の舞踊で、逢坂山の関所を通る際に各人物が物語を語ってゆくという内容です。

 「士」・・・武士 松田左近

 「農」・・・田舎娘 おさん

 「工」・・・大工 臍右衛門(ほぞえもん)

 「商」・・・文売り

 

上記のように「文売り」は「商」の部分にあたり、元旦から15日までの期間に代書、懸想文(けそうぶみ・恋慕を綴った手紙)を男女に売って良縁を作るという職業でした。

今回主人公の文売りは、実は傾城大淀という太夫で金太郎(坂田金時)の母「山姥」でもあるという人物です。

 

 

曲の筋は遊郭で「小田巻」という傾城(花魁)と他の花魁が一人の男性をめぐって突飛ばしたり殴り合ったりの大ゲンカを繰り広げ、それを聞きつけた遣り手や仲居、店に出入りのある座頭、按摩、外を歩く巫女や山伏、中には雪駄下駄が片方脱げたまま駆けつけた者など、遊郭中の見物人なども大乱闘となって大騒ぎになってしまったという内容です。

ちなみに「他の花魁」というのは「文売り(実は傾城大淀)」ではないかと推測されますが、物語内では明確に現わされていません(^_^;)

 

 

 

歌 詞

 

 

同じ身すぎもさまざまに 目出度き春の懸想文

これは恋路を売り歩く 文玉章(ふみたまずさ)の数々は

口説上手に惚れ上手 または相惚れ片思い

縁のたねを結び文 これも世渡る 習いかや

 

文売り「さあさあ これは色を商う文売りでござんす

    私が商う文の数々は

    宵の睦言 まだな事 まぁ聞かしゃんせェ」

 

流れ忙しき憂き勤め 替わる夜ごとのその中に

惚れた男の意地悪う オットよしても暮れの鐘

その手で深みへまた俺を かける心と見てとった

どりゃと立つのを引き止めて

今日は取り分け色々と 言うこと聞くこと たんとある

その約束で今朝早う ござんす筈を憎らしい

初に逢瀬の絹ぎぬに 送る出口の嬉しさを

心に思うありたけを 言い交わしたを何じゃいな

野暮な口説の只中へ 降って脇から只一人

 

文売り「同じ廓に小田巻という傾城が 毎晩送る 文の数々」

 

三万三千三百三十三本ほど 指に廓の文使い

返事の無いに腹立てて 顔に紅葉の打掛けを

とって脱ぎ捨て私がそば

 

小田巻「これ かつみさん いやなお方に惚れはせぬ

    今までお前が大事にしたアノさんを

    今日から私に下さんせ」

                    (かつみ=男の子の禿の意味。女の子の禿=みどり)

 

もらいに来たと ずっかりと こっちも日頃の癇癪酒

 

別の花魁「これ小田巻とやら くだ巻きとやら せっかくお前の

     御無心じゃが もう百年も経ったのち 松葉を添えて

     主さんあぎょう」

 

あだ馬鹿らしいと言い様に 突きのく弾みにばたばたばた

縁から下へ落ちの人 あご痛たたと泣きいだす

 

騒ぎの声に小田巻が 遣り手 引き舟 仲居 飯炊き

出入りの座頭 按摩とり 神子 山伏に 占やさん

雪駄片しに下駄片し 草鞋(わらんず)掛けで来るもあり

 

台所から座敷まで 太夫さんの仕返しと

ここでは打ち合い 抓めり合い 銚子 燗鍋 踏み返し

そりゃこそ津波が打ち混ぜて 隠居が子を産む ヤレ取り上げて

ソレかつお節よ擂鉢よ がらがらピシャリっと鳴る音に

桑原くわばら観音経 秘蔵な子猫が馬ほどな

鼠を喰わえて駆け出すやら 屋根では鼬(いたち)が踊るやら

 

神武以来の悋気いさかい このこと世上に知られけり

 

よどまぬ水に月影も 暫し留むる逢坂の

関に残せし物語 勇ましかりける次第なり

 

 

 

参考資料
清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

またYouTubeチャンネル「清元pockets」にも文売りのお手軽動画をアップしております!

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(画像をクリックするとYouTube「文売り」に飛びます)

 

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清元 國惠太夫

北州千歳壽(北州) プチ解説&歌詞

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こんにちは。くにえです。

今回は清元「北州」の曲紹介をしたいも思います^_^
 

この記事は5~6分で読んでいただけると思います。

 
 

北州(ほくしゅう)

 
 
 
 

解 説

 


 

1818年(文化15年)春に素浄瑠璃として開曲されました。
作詞者の太田蜀山人は洒落者と伝わり本名題を「北州千歳壽(ほくしゅうせんざいのことぶき)」と付けています。
 
作詞者は上記の太田蜀山人(南畝なんぽ)、作曲者は元吉原の芸妓でのちに料亭「川口」経営者のお直。
蜀山人は遊女の部屋で歌詞を書き上げたと言われています。
 
この曲は蜀山人が70歳の祝いと、若くして亡くなった遊女「玉菊」の追悼を込めて作られたものと伝わっています。
 
 
北州とは江戸の北に位置する「吉原遊郭」のことを指します。


三味線は平家掛かりより「およそ千年の鶴は〜」と謡曲(能)の「翁」から出ていて重々しく始まります。

「万歳楽とうとうたり」は「万歳楽と謡うたり」と「万歳楽とうとうたり(とうとうたらり)」の2つの意味が隠れています。

そして「霞のころも〜」からガラリと曲調が変わり吉原の四季を織り込んだ華やかなものになります。


歌詞にも吉原に関連する場所や行事が出てくるという清元ならではの演出になっております。
 
 
 
 
 
 

歌 詞

 
 
およそ千年の鶴は 万歳楽とうとうたり 又
万代の池の 亀の甲は 三曲 にまがりて
曲輪をあらわさず 新玉の
 
霞の衣えもん坂 衣紋つくろう初買の
袂ゆたかに大門の 花の江戸町 京町や
背中合せの松かざり 松の位を見返りの
柳桜の仲の町 いつしか花もちりてつとんと
見世清掻きの風薫る 簾かかげてほととぎす
鳴くや皐月の菖蒲草 あやめもわかぬ一単物
いよし御見の文月の なき玉章の灯篭に
星の痴話言 ささめ言
 
銀河と聞けば白々と 白帷子の袖にそよそよ
はや八朔の白無垢の 雪白妙に降りあがり
なじみ重ねて 二度の月見に逢いとて見とて
合せ鏡の姿見に 露うちかけの菊重ね
きくのませたる禿菊 いつか引込み突出しの
約束かたき神無月に 誰が誠より本立の
山鳥の尾の酉の市 妹がり行けば千鳥足
日本堤を土手馬の 千里も一里通い来る
浅草市の戻りには 吉原女郎衆が手鞠つく
 
ちょと百ついた浅草寺 筑波の山のこのも彼面
葉山茂山おしげりの しげきみかげに栄えゆく
四季折々の風景は 実に仙境 かくやらん
隅田の流れ清元の 寿延ぶる太夫どの
君は千代ませ 千代ませと 悦びを祝ふ 天ぴつ和合神
日々に太平の足をすすむる 葦原の国安国と舞ひ納む
 
 
 
 
 

参考資料

清元全集 清元集 清元五十番

 
 
 
「北州」の演奏動画はこちらから「清元pockets」
         ↓↓
youtube_kiyomotopockets_hokusyuu.jpg
画像をクリックするとYouTubeへとびます!
 
 
 
 
 
 
 

清元 國惠太夫

隅田川 プチ解説&歌詞

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こんにちは。くにえです。

 

三月大歌舞伎、第三部「隅田川」のプチ解説&歌詞を書かせていただきます。

 

 

浄瑠璃を耳だけでとらえるのはなかなか難しい箇所もございます。

 

この記事は9~10分で読んでいただけると思います。

歌詞をサクッとお読みいただくだけで舞台をより一層楽しんで頂けると思います!

 

是非ともこちらをご活用くださいませ\( 'ω')/ 

 

 

 

 

 

隅田川(すみだがわ)

 

 

 

 

解 説

 

謡曲(能の詞章)「角田川」を題材として作詞を条野採菊(じょうのさいきく)、作曲を二世清元梅吉が担当し清元の曲に仕上げました。ちなみに条野採菊は鏑木清方画伯の父でもあります。

この曲は1883年(明治16年)2月17日に素浄瑠璃(清元のみの演奏)として作詞者の自邸で開曲しました。

そのため本名題も無く「隅田川」です。

 

1919年(大正8年)9月歌舞伎座の興行で二代目市川猿之助(初代市川猿翁)により舞台化されました。

 

 

我が子「梅若丸」を探し続けて都よりはるばる東の隅田川まで来た母「班女の前(狂女)」。それを「舟人(渡し守)」が助けます。 

髪も乱れ、もはや常人ではない様子でした。

 

舟人は心身共に疲れっきった班女の前を舟に乗せ、その経緯を聞くうちにある出来事を思い出します。

それは昨年都より「人買い」が由緒のあるだろう幼い子供を買い取り、ここへやって来た話でした。

 

その幼い子供は一歩も歩けないほど疲れ果て、あげくに人買いに捨てられてしまいました。

周りの人たちは不憫に思い介抱しましたが命を落としてしまうのでした。

 

舟人の話を聞いた班女の前は詳しい時期や年齢を問います。

「名前は?」

「梅若丸」

命を落とした幼い子供は班女の前の子供だったのです。

 

一層不憫に感じた舟人は梅若丸を供養した塚へと案内し念仏を唱えます。

「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・・・・」

 

すると念仏の中に梅若丸が共に念仏を唱える声が!?

 

 

「ついと塒を立つ白鷺の 残す雫か露か涙か」

 

その声は幻であったのか。現実であったのか。

空はほのぼのと空けてゆくのでした。

 

 

 

冒頭部分

「実にや人の親の 心は闇にあらねども 子を思う道に迷うとは」

 

この一節の通り、子供を想う親心は偉大です。

母子の愛情に溢れている悲劇の大作です!

 

 

ちなみにこの開曲当時は遊里や色恋、下町を題材とした曲の多い清元も世間より非難されてました。

(演劇改良運動)

そこで五世清元延寿太夫は今まで清元にある曲の歌詞編纂(不適切な言葉も使われていた)などで風評脱却を目指しました。

 

この「隅田川」開曲も脱却の一つの方法としての試みでした。

子を失った母が隅田川岸をさまよい歩き、舟人(渡し守)が介抱する場面やその母を塚へと案内する場面など、今までの清元の様に艶っぽさはなく、曲全体を上品に仕上げたのも上記の時代背景が大きいとされています。

また最後部分の舟唄「ついと塒を立つ白鷺の のこす雫か露か涙か」の部分も五世延寿太夫が補曲したと言われています。

 

 

 

 

 

歌 詞

 

 

舟  人「これは隅田川の渡守にて候 今日は舟を急ぎ 人々を渡さばやと存じ候

     又都より女物狂いの下り候由 暫く舟を止め彼の物狂いを待とうずるにて候」

 

実にや人の親の 心は闇にあらねども 子を思う道に迷うとは 今こそ思いしら雪の 

身に降りかかる憂き苦労 誰に語りて晴らすらん

 

班女の前「これは都北白川に 年経て住める女なり」

 

思わざりき思い子を ひと商人に誘われて 行方は何処逢坂の 関の東の国遠き

東とかやに下りぬと 聞くより心乱れ髪 櫛けずるらん青柳の 愛しわが子を尋ねわび

千里を行くも親心 来るとはなしに東なる 隅田河原の片ほとり 渡りに近く着きにけり

 

班女の前「のうのう舟人 わらわをもその船に乗せて給わり候え」

舟  人「おことは何処より いづかたへ下る人ぞ」

班女の前「これは都より人を尋ねて この東へ下る者にて候

     のう舟人 あれに白き鳥の見えたるは何と申し候ぞ」

舟  人「おお あれこそ沖の鴎なり」

 

うたてやな浦にては 千鳥ともいえかもめとは などこの隅田川にては 都鳥とは告げずして

沖の鴎と夕潮に 在吾の君の古えは わが身の上に業平や いざ言問わん都鳥

我思い子はありやなしやと 問えど 答えも渚こぐ 舟人わらわを乗せ給えと 言うに 舟人掉取り直し

 

舟  人「急ぎて舟に乗り候へ」

班女の前「おお嬉しの舟人やな

     おおあの向いの柳のもとに 人の多く集 まりしは 何事にて候ぞ」

舟  人「さん候 あれは大念仏にて候 それにつき哀れなる物語りの候

     この舟の向いへ着き候はん程に 語って聞かせ申すべし さても」

 

去年の弥生に 人商人の都より 幼き者を買いとりて 奥へ下らん道すがら ならわぬ旅の疲れにや

一足だにも歩めじと この川岸にひれ伏せしを 情を知らぬ人買いは 幼き者を路地路次に捨て 

そのまゝ奥へ下りたり

 

舟  人「その幼な子を見てあるに 由ある者と思うにぞ」

 

人々さまざまいたわりて 国を問えば 都の白川 父御の名をば問いたるに 吉田と許り夕告ぐる

諸行無常の鐘の音を 聞くがこの世の名残りにて 草葉の露と消えにしは 哀れ というも愚なり

今日乗合いの方々も 逆縁ながら一遍の 念仏申させ給えかし

 

班女の前「のう舟人 今の物語りはいつの事にて候ぞ」

舟  人「昨年三月 しかも今日の事にて候」

班女の前「してその稚子の歳は」

舟  人「十二歳とか」

班女の前「その名は」

舟  人「梅若丸」

 

その幼き者こそは この物狂いが子にてあれ これは夢かや浅ましやと 人目も恥ず泣き伏せば

 

舟  人「おお さては御身が子にてありしか あら悼わしや

     せめては亡き人の墓なりとも見せ申さん いざ此方へ」

 

いざさせ給えと伴えば 昨日迄も今日迄も 逢うを頼みに見も知らぬ 東の果へ下りしに

今は此世になき跡に 一ㇳ本柳枝たれて 千草百草茂るのみ せめては土を掘返えし

亡骸なりとも今一度 見たや逢いたやとばかりに 落つる涙は道芝の 露を欺くばかりなり

 

舟  人「如何に御歎き候共 今はその甲斐候わね 只々後世を弔い候えや」

 

我子の為と身を起し 月の夜念仏諸共に 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

隅田河原の波風も 声たて添えて 南無阿弥陀 阿弥陀仏

 

班女の前「のうのう今の念仏の内に 正しく我子の声すなり」

 

我子はどこにいづくにぞ あるかなきかと箒木の いとど心の物狂い 我子の声と聞きたるは

川に飛び交う都鳥 我子の姿と見えたるは 塚に添うたるさし柳

ついと塒を立つ白鷺の 残す雫か露か涙か

幻の見えつ隠れつする程に 空ほのぼのと明けにけり

 

 

 

(演出の都合上、変更になる場合があります。)

 

 

 

参考資料

清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

2011.12kyoto_minamiza_sumidagawa.jpg

写真は2011年12月、京都南座での隅田川の舞台です。

我々がスタンバイをしているところです(笑)

 

 

 

 

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youtube_sumidagawa_samune.jpg

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清元 國惠太夫

雪暮夜入谷畦道~直侍~(三千歳)プチ解説&歌詞

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こんにちは。くにえです。

 

三月大歌舞伎、第二部「雪暮夜入谷畦道~直侍~」のプチ解説&歌詞を書かせていただきます。

 

 

浄瑠璃を耳だけでとらえるのはなかなか難しい箇所もございます。

 

この記事は7~8で読んでいただけると思います。

歌詞をサクッとお読みいただくだけで舞台をより一層楽しんで頂けると思います!

 

是非ともこちらをご活用くださいませ\( 'ω')/ 

 

 

 

 

 

雪暮夜入谷畦道~直侍~(ゆきのゆうべ いりやのあぜみち~なおざむらい~)

 

 

解 説


この演目での清元の場面は、罪人として追いかけられている片岡直次郎が雪の中、三千歳のいる入谷村の大口屋の寮(別荘)へ忍び尋ねるというシーンです。 

 

またこの状況の場面を「余所事浄瑠璃(よそごとじょうるり)」と言います。

三千歳と直次郎の再開する建物の隣の座敷(よそ)から清元が聞こえてくるという、お芝居に我々が出ても不自然にならない様な洒落た演出になっています(*´▽`*)

 

ちなみに以前ご紹介した吉田屋・廓文章(夕霧)も余所事浄瑠璃で、我々は羽織を着ての出演です。

 

國惠太夫blog「吉田屋廓文章(夕霧)」

 

 

 

元々は河竹黙阿弥作の「天衣紛上野初花(河内山)くもにまごううえののはつはな(こうちやま)」の六幕目「大口屋寮の場」にあたり、今回はその前の五幕目の「入谷村そば屋の場」とニ幕を抜粋した演出となります。

 

 

清元としても独立してよく演奏される浄瑠璃で、本名題を「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」と言います。

作詞者は河竹黙新七(黙阿弥)。作曲者は清元お葉(四世延寿太夫夫人)または二世清元梅吉または合作。

登場人物から「三千歳」と通称されることも多々あります。

 

1881年(明治14年)3月に江戸新富座で河竹新七が「河内山」に直次郎が三千歳に逢いに来る場面を足して改作しました。

 

「入谷村そば屋の場」で悪党仲間の「暗闇の丑松」とでくわし、直次郎自身の罪が発覚し追手が迫っていると告げられます。

またそのそば屋で、胸を患っている三千歳の治療をしている「按摩の丈賀」と出会い、三千歳の今の様子を聞かされます。

直次郎は悩みますが、危険を冒してまで想う三千歳の元へと逢いに行く決意をするのでした。

 

丈賀に今夜三千歳のところへ逢いに行くことを言づけますが、それを陰から見ていた丑松。

 

直次郎を売って自分だけ罪を逃れるか?兄弟分の義理を通すか? 

 

しかしその答えは意外な偶然から決するのでした・・・。

 

 

清元の演奏する「大口屋寮の場」はそういった状況の中で直次郎が三千歳に逢う場面です。

 

 

冒頭の部分

「冴え返る春の寒さに降る雨も 暮れて何時しか雪となり 上野の鐘の音も凍る」

この一節だけで場面を想像できるほど、素晴らしい詞です。

 

また「知らせうれしく~」や「一日逢わねば千日の 思いにわたしゃ患うて」といった三千歳の想いのままが詞に表現されており見どころ聴きどころです!

 

河竹黙阿弥お得意の「七五調」のセリフ回しも粋で爽快ですよ。

 

 

自分の危険も返りみず、三千歳の元へ逢いに行く直次郎。

現代のドラマにも引けを取らない恋愛劇を是非ともお楽しみくださいませ(^O^)

 

 

 

 

 

歌 詞

 

冴え返る 春の寒さに降る雨も 暮れていつしか雪となり 上野の鐘の音も凍る

細き流れの幾曲り 末は田川へ入谷村 廓へ近き畦道も 右か左か白妙に

往来のなきを幸ひと 人目を忍びたたずみて 

 

直次郎「思ひがけなく丈賀に会い 頼んでやったさっきの手紙 もう三千歳の手へ届いた時分

    門の締りが開けてあるか かどからそっと 当って見ようか」

 

たしかにここと目覚えの 門の扉(とぼそ)へ立ちよれば 風に鳴子の音高く

驚く折から新造が 灯し携え立ち出でて 

 

千代春「今鳴子の鳴ったのは風のようでは無かったが」

千代鶴「大方ここへ直はんが」

千代春「アァモシ 静かにしなましよ」

 

さし足なして千代春が 扉へ寄りて声ひそめ

 

千代春「モシ直はんざますか」

直次郎「おぉそう云う声は千代春さんかへ」

千代春「さっ早くこっちへ這入んなましょ」

千代鶴「わちきは奥の花魁へ お知らせ申して参りんしょう」

 

気転きかして奥戸口 互ひに心 合鍵に 扉を開けて伴ふ折から

 

門の外には丑松が 内の様子を伺ひて 一人うなづき雪道を 飛ぶが如くに急ぎ行く

 

直次郎「やっとの思ひで忍んで来たんだ 聞けば三千歳は患っているそうだなぁ」

千代春「それもみんなおまはん故でありんすよ」

 

晴れて逢はれぬ恋仲は 人に心を奥の間より

知らせ嬉しく三千歳が 飛立つばかり立ち出でて 訳も涙にすがりつき

 

「セリフ」

 

千代春「花魁」

千代鶴「直はん」

千代春「ここでゆっくり」

両 人「お話なんなんしえ」

 

廓(さと)に馴れたる新造が 話の邪魔と次の間へ 粋を通して入りにける

後には二人さし合も 涙ぬぐふて三千歳が 恨めしそうに顔を見て

 

「セリフ」

三千歳「わづか別れて居てさえも」

 

一日逢はねば千日の 思ひにわたしゃ患うて 針や薬のしるしさへ 泣きの涙に紙濡らし

枕に結ぶ夢さめて いとど思ひの十寸鏡(ますかがみ)見る度毎に面痩せて どうで長らへ居られねば

殺して行って下さんせと 男にすがり嘆くにぞ

 

直次郎「今更云うて返らぬが 悪事をなしてお仕置を 受けりゃ先祖代々の 墓へ入れぬこの身の上

    回向院の下屋敷へ 俺れの墓をば建ってくれ コレがお主へ おれの頼みだ」

 

これが頼みと手を取りて 共に涙にくれにける 男も愚痴に絡まれて もて余したる折からに

始終を聞いて寮番の 喜兵衛は一間を立ち出でて

 

「セリフ」

 

実に桓山(かんざん)の悲しみも 斯くやとばかり降る雪に 積る思ひぞ(残しける)

 

 

 

(演出の都合上、変更になる場合があります。)

 

 

 

参考資料

清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

2016.01_kabukiza_ura.jpg

この写真は2016年1月歌舞伎座「壽初春大歌舞伎」の時のものです。

三千歳と直侍が再開する「大口屋寮の場」のセットです。 

撮影は舞台裏で、表では前場が上演されており、とても暗く見えづらいです(。-人-。) 

スミマセンm(_ _)m

 

 

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youtube_michitose_samune.jpg

(画像をクリックするとYouTube「三千歳」に飛びます)

 

 

 

清元 國惠太夫

廓文章・吉田屋(夕霧)プチ解説&歌詞

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こんにちは。くにえです。

 

来月京都南座に於いて「吉例顔見世興行」が開催されます。

その第三部に竹本・清元「廓文章・吉田屋」が掛かります。

(吉例顔見世興行の詳細は國惠太夫blog「京都南座 吉例顔見世興行」をご覧ください)

 

 

今回は「廓文章・吉田屋」の清元の箇所の解説と歌詞を書きたいと思います(^O^)

 

浄瑠璃は母音を伸ばしたり「節付け」があります。

そのため耳だけでとらえるのはなかなか難しい箇所もございます。

 

 

6~8分で読んでいただけると思います。

歌詞もサクッとお読みいただくだけで舞台の概要や雰囲気をより一層楽しんで頂けると思います!

また江戸風俗、古語、清元を学ぶ際のちょっとしたお役に立てれば幸いでございます!

 

是非ともご活用くださいませ\( 'ω')/

 

 

 

 

解 説

 

清元での本名題は「春夜障子梅(はるのよしょうじのうめ)」と言います。

芝居などで竹本連中と掛合の場合は「廓文章」と表現する場合がほとんどです。

これは元々は義太夫の「廓文章」の「吉田屋の場」を清元の前身である「富本節」に作曲しなおした為です。(のち清元へ移調されました。)

これも清元では「吉田屋」「夕霧」と、少し違う通称をします。

 

初演は天明4年(1784年)正月(江戸森田座)。

ちなみにこの天明は、現在の福岡県志賀島で金印が発見されたり、数年に渡り「天明の大飢饉」が起こったり、浅間山の噴火と当時の民衆にも大きな出来事は数多くあった時代だった様です。

 

作詞は近松門左衛門(義太夫時の作者)、作曲は佐々木市四郎、初演の浄瑠璃は富本斎宮太夫です。

初演の伊左衛門は四世松本幸四郎、夕霧は三枡徳次郎。

高麗屋さんにとってもとても縁の深い演目なのです)^o^(

 

 

「清元」になってからの初演は文久3年(1863年)9月(江戸中村座)です。

 

 

 

登場人物の「夕霧太夫」は大阪の新町の実在した人物です。

江戸の「高尾太夫」京都の「吉野太夫」そして大阪の「夕霧太夫」と並び称されたほどの名妓だったようです。

京都島原にあった「扇屋」に在籍し、お店の移転と共に大阪新町へ。

その後、延宝6年(1678年)に27歳で没したと記録にあります。

 

 

芝居の内容は

親に勘当され、紙で出来た着物(紙子)を着なくてはならない程落ちぶれた伊左衛門。

夕霧の居る吉田屋を訪れ、主人の喜左衛門に昔馴染みで部屋へ通してもらえるが、どうやら当の夕霧は他の客と遊んでいるらしい。

床の間にある三味線を取って、奥座敷から聞こえてくる音と共に嫉妬と怒りを「ゆかりの月」の唄で表します。

 

それを知った夕霧は伊左衛門の所へ走り寄って嬉し涙を流しますが、伊左衛門は「万歳傾城」とののしって足蹴にします。

夕霧は伊左衛門の誤解を悲しみ、寝ても覚めても思い続けて病気も患ってしまったことを訴え、

そこへ扇屋主人喜左衛門と女房おさきが来て、伊左衛門の勘当が許され、夕霧を見受けする手続きも無事終わった旨を告げます。

めでたしめでたし、で終わります( ´艸`)

 

 

清元の「くどき」といわれる夕霧の心情を語る箇所などが聴きどころとなっております!^^


また我々の座っている山台は「隣のお座敷」という設定です。

どこからともなく三味線や唄が聴こえてくるという日本古来のルール「暗黙の了解」の成立する「他所事浄瑠璃(よそごとじょうるり)」の作品でもあります\(^o^)/

 

 

歌 詞

 

後には一人うたたねの 寝ても寝られぬ置炬燵

掛ける布団の肌寒く

 

「セリフ」

 

奥の様子を伊左衛門 腹立まぎれ床の間の 三味線引きよせ調子さへ

合はばどうしてこうしてと 胸は二上り三下り

唄のしょうがに合の手や 可愛い男に逢坂の

関よりつらい世のならい

 

「セリフ」

 

思はぬ人に堰き留められて 今は野澤の一つ水

 

「セリフ」

 

済まぬ心の中にも暫し 澄むはゆかりの月の影

無残やな夕霧は 流れの昔なつかしき

夫の音締め身にこたえ 飛び立つ心奥の間の

首尾が朽ちせぬえんと縁 胸と心の間の山 間の襖の工合よく

明暮恋しい夫の顔 見るに嬉しく走り寄り

抱きついたるきりぎりす 泣くより外の事ぞなき

 

「セリフ」

 

とうに死ぬるはずなれど 今日まで命 長らえしも

神仏の控え綱 これ 懐かしゅうはないかいな

顔が見とはないかいなと 

揺り起こし 揺り起こし 抱き起こせば

 

「セリフ」

 

通りゃと言ひければ

 

「セリフ」

 

誠にめでとうさむらいける

 

「しかも足駄はいて蹴るやら」

 

年立ち返る足駄(あしだ)にて 誠にめでたうさむらひける

 

「セリフ」

 

慾わかに御萬歳とや 年立ち返る足駄にて 誠にめでたうさむらいける

 

「町人も蹴る 伊左衛門も蹴る」

 

と蹴ちらかし 煙草引きよせ吹く煙管の さらぬ体にて居たりける

 

夕霧涙もろともに 怨みられたり嘆つのは 色のならいと言いながら

仲直りすりゃ明の鐘ェェ 憎うてならぬ鳥の声

何の烏が意地悪で 啼くぢゃなけれど絹ぎぬの

去なせとむない心から 去年の暮から丸一 年

二年越しに音づれなく それは幾瀬の物案じ

それ故にこの病い痩せ 衰えたが目に見えぬかァァ

せん薬とねり薬と鍼と 按摩でようようと

命繋いでたまさかに 逢うてこなはんに甘ようと

思うところを逆さまな こりゃ酷らしいどうぞいの

心強や胴慾な 憎やと膝に引き寄せて

さすっつ泣いつ声を上げ 訳も性根もなかりける

「セリフ」

 

家内が勇む勢ひにィィ 連れて浮き立つ伊左衛門

悦びの眉を開くや扇屋夕霧 名を萬代の春の花

目出度かりけるゥゥ

 

 

 

※演出上変更になる場合がございます。

 

 

  

参考資料

清元全集 清元集 清元五十番

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清元 國惠太夫

11月博多座 夜の部「お祭り」歌詞&プチ解説

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こんにちは。くにえです。

 

11月博多座「市川海老蔵特別公演」夜の部「お祭り」の歌詞&プチ解説を書きました。

 

※昼の部「流星」解説はこちらです。

※市川海老蔵公演の記事はこちらです。 

 

浄瑠璃を耳だけでとらえるのはなかなか難しい箇所もございます。

 

 

4~5分で読んでいただけると思います。

歌詞をサクッとお読みいただくだけで舞台をより一層楽しんで頂けると思います!

 

是非ともこちらをご活用くださいませ\( 'ω')/

 

 

「お祭り」

 

歌 詞

 

申酉の 花も盛りの暑さにも 負けぬ気性と見かけから

 

粋な稲荷を 思えばよしや ちょっと格子へ呼子鳥

想いくらべん恋の仲 勝り劣らん花の意地

 

常から主の仇な気を 

知っていながら女房になって 見たいの欲が出て

神や仏を頼まずに 義理もヘチマの革羽織

親分さんのお世話にて 渡りも付けてこれからは

世間構わず 人さんの前 はばからず引き寄せて

 

森の子がらす我はまた 尾羽をからずの羽根さえも

なぞとアイツが得て物の ここが木遣りの家の株

 

千代に八千代の御贔屓も 変わらぬ色は紫の

ゆかし面影 江戸桜 負けぬ気性は荒磯の

水を浴びたる飾り海老 

エンヤ エンヤこれは あれはさのえ

 

言わずと知れしお祭りの 形(なり)もすっかり そこら中

行き届かせてコブもなく ここでは一つ あそこでは

かしら頭と立てられて ご機嫌じゃのと町内の

家主方も夕日かげ 風もうれしく戻り道

 

じたい去年の山帰り 言うは今更 過ぎし秋

初の一座の連れのうち 面白そうな口合いに

好いたが因果 好かれたも 心に二つはないわいな

その時あいつが口癖に 諦めて何のかのと ありゃ只の人

赤凡夫の我々なりゃこそ 滅法界にまよいやす

お手が鳴るから銚子の変わり目と上がってみたれば

お客が三人 庄屋ぽんぽん 狐拳

とぼけた色では ないかいな

 

引けや引け引け 引くものにとりては

花に霞よ 子(ね)の日の小松

初回の盃 馴染みの煙草盆 お洒落娘の袖たもと 下場の履物 

内裏女郎の召し物 座頭のまわし菖蒲に大根 御神木のしめ縄

 

実にも上なき市川の 栄え三枡の寿の字海老 目出度かりける

 

 

 

11月4日改訂

11月9日改訂

 

(演出の都合上、変更になる場合があります。)

 

 

解 説

清元で通常お祭りというと「申酉」という曲をさすことが多いですが、今回の博多座「お祭り」は今月公演のための特別なメドレーになっております。

 

「申酉」「神田祭」と清元の名作も箇所箇所に入っており、「粋な稲荷」や市川海老蔵丈の屋号「成田屋」「十一代」「海老」の歌詞も散りばめられ華やかな舞台を演出いたします!

(((o(*゚▽゚*)o)))

 

2015.2_kabukiza_kandamaturi.jpg

写真は2015年2月歌舞伎座「神田祭」の写真です。

 

御祭礼の提灯が所々に飾ってあり、とても華やかな雰囲気。

このような場面を想像していただくと良いと思います( ´艸`)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清元 國惠太夫

11月博多座 昼の部「流星」歌詞&プチ解説

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こんにちは。くにえです。

 

11月博多座「市川海老蔵特別公演」昼の部「流星」の歌詞&プチ解説を書きました。

 

※夜の部「お祭り」解説はこちらです。

※市川海老蔵公演の記事はこちらです。 

 

浄瑠璃を耳だけでとらえるのはなかなか難しい箇所もございます。

 

 

7~8で読んでいただけると思います。

歌詞をサクッとお読みいただくだけで舞台をより一層楽しんで頂けると思います!

 

是非ともこちらをご活用くださいませ\( 'ω')/ 

 

 

 

 

流 星

 

 

 

解 説

 

 

本名題を「日月星晝夜織分(にちげつせいちゅうやのおりわけ)」といいます。

作詞は河竹新七(のちの河竹黙阿弥)作曲は清元順三で、1859年(安政6年)に江戸市村座で初演されました。ちなみにこの年はあの有名な大老井伊直弼が「安政の大獄」に踏み切り、徳川慶喜を始めとする多くの学者や各藩の有力な人物が処分を下された年です。

 

歴史の勉強などをすると何とも暗い世の中だったイメージですが、庶民の暮らしは相変わらず芝居を楽しんだりと普通の生活を送っていたことも想像できますね( ´艸`)

  

開曲当初は通称を「夜這星(よばいぼし)」と呼んでいましたが、時代と共に風紀を害するということで五世延寿太夫が「流星(りゅうせい)」と変更しました。

 

舞台は七夕の夜に牽牛(けんぎゅう)【彦星のこと】と織女(しょくじょ)【織姫のこと】が年に一度の逢瀬を楽しんでいるところに、流星が天上界に自分の身の回りで起きた事を注進するところから始まります。
 

牽牛織女に流星が話す内容とは、自分の隣に住む雷夫婦の喧嘩のことでした。 

 

ある日、父雷が雲から落っこちてしまい、端唄の師匠のところに居候します。居候中に聞いて

覚えた端唄混じりの雷を天上界に戻っても、つい鳴らしてしまいます。
その様子に呆れはてた母雷と夫婦喧嘩になってしまうのです。
子雷や隣の婆雷が仲裁に入りますが、いっこうに収まりません。

 

はたして夫婦喧嘩の結末はどうなったのでしょうか?

 

歌詞の中に当時流行歌だった「端唄」や伝染病として蔓延した「コロリ(これら)」など、
当時の世相がよく反映された傑作です。

また「丸い世界」という歌詞も出ます。当時から既に世界は丸いという知識が当たり前だったようですね!

 

そしてキーワード「夫婦喧嘩」。

これもいつの時代も変わらず・・・(笑)

 

一人の立ち方が「父雷」「母雷」「子雷」「婆雷」を瞬時で踊り分けます。

見どころ満載、ユーモラスたっぷりの舞台を是非ご覧ください!(*^▽^*)

 

 

実は2009年12月に流星の清元の演奏のみの動画をYoutubeにアップしております。

今回の舞台とは曲の構成が違いますがお聞きくだされば幸いです。

國惠太夫blog「清元「流星」について」にYoutubeのリンクがございます(∩´∀`)∩

 

 

 

歌 詞

 

※今回は役柄によって歌詞の色を変えてみました。

父雷」「母雷」「子雷」「婆雷


それ銀漢と唐詞に 連ぬる五言七言の

かたい言葉を柔らぐる 深くも願う夫婦星

 

流星「御注進 御注進」

 

呼ばわる声も高島や 飛んで気軽な流星が 

丸い世界へ生まれしからは 恋をするのが特鼻褌(とくびこん) 

寝るに手まわし宵から裸 ぞっと夜風にハッハッハッ ハックサメ 

彼奴が噂をしているか エエ畜生めと夕闇を 足も空にて駆け来たり

 

牽牛「様子はいかに」

流星「ハハーッ さらば候そろそろと 三つ合わせてさん候」

 

およそ夜這いと化け物は 夜中のものに宵の内 

とろとろやろうと思いのほか 一つ長屋の雷が 夫婦喧嘩の乱騒ぎ 

聞けばこの夏流行の 端唄の師匠へ落っこちて

気は失なわねど肝心の 雲を失い居候

そこで端唄を聞き覚え この天上へ帰っても つい口癖になるときも 

ごろごろごろごろごろごろ エエごろごろごろ 

聞く女房は呆れ果て マッコレそんなのろけた鳴りようでは 

恐がるお臍で茶を沸かそう 鳴るなら大きな声をして 

ゴロゴロゴロ ピカピカピカ ゴロゴロゴロ ピカピカピカ

ゴロゴロ ゴロゴロ ゴロゴロゴロゴロ ゴロゴロ・・・・・ピシャリっと

鳴らねばさまを付けられぬ と言えば

亭主は腹を立て それは昔の雷だ 

大きな声で鳴らずとも 粋に端唄で鳴るのが当世

それがいやなら 出て行きゃれ 

なに出て行けとえぇ 

オオサッ 角を見るのも アァ厭になった

 

我がものと思えば軽ろし傘の雪

 

我がもの故に仕方なく 我慢をすりゃあつけ上がり 

亭主を尻に引きずり女房 サア恋の重荷の子供を連れ きりきりと出て行きゃれ 

いえいえここは私の家 

お前は婿の小糠雨 傘一本もない身の上 

汝そうぬかせば了簡がと 打ってかかるを

ゴロゴロゴロ

ゴロゴロゴロと鳴る音に

傍に寝ていた小雷 コヨコヨコヨと起き上がり 

コレ父さん可哀想に母さんを

背負った太鼓じゃあるまいし 何でそのようにたたくのじゃ

堪忍してとコヨコヨコヨ 

かかる騒ぎに隣りから 婆雷が止めに来て 

マママこれ お前方はどうしたのじゃ 夫婦喧嘩は雷獣も 

喰わぬに野暮を夕立は どんな太鼓の八つ当たり 出て行との一声は 

 

月が鳴いたか時鳥 いつしか白む短夜に まだ寝もやらぬ手枕や 

 

アレおなるさんもくよくよと 

愚痴なようだが コレマ泣いているわいな 

端唄に免じて五郎介どの 了簡見してとゴロゴロゴロ 

いえいえ私しゃ 打たれたからは 了簡ならぬとゴロゴロゴロ 

ならずば汝とゴロゴロゴロ 

父さん待ってコヨコヨコヨ 

これはしたりとゴロゴロゴロ 

止めるはずみに雷婆 ウーンとばかりに倒るれば 

こりゃころりではあるまいか

医者よ針医と立ち騒げば 

入れ歯の牙を飲み込んで 胸につかえて苦しやと 

 

言うにおかしく仲直り 夫婦喧嘩のあらましは

かくの通りと手ぬぐいで 汗を拭うて至りける

浮かれ浮かるる足の下 撞き出す鐘は浅草か

雲の上野の明け六つに 南無三夜明けに この姿(なり)では

 

流星「ハヤおさらば」

 

虚空はるかに(失せにけり)

  

 

(演出の都合上、変更になる場合があります。)

 

 

 

 

image.jpeg

写真は2016年7月歌舞伎座で上演された「流星」の写真です。

天上界の雲がとても映えるセットです。

今回とは違うと思いますがイメージを膨らませて下さいませ!(≧▽≦)

 

 

 

 

 

 

 

清元 國惠太夫

吉野山 歌詞&プチ解説

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こんにちは。くにえです。

 

今月歌舞伎座「八月花形歌舞伎」第三部「吉野山」の歌詞とプチ解説を書こうと思います。

國惠太夫blog「八月花形歌舞伎in歌舞伎座」もご参照ください(^O^)

 

 

 

解説

吉野山。本名題を「幾菊蝶初音道行(いつもきくちょうはつねのみちゆき)」といいます。

※別名を登場人物から「忠信」と表現されることもあります。

通し狂言「義経千本桜」の四段目。

元々は義太夫節「道行初音旅」を「富本節」に改作。そして「富本節」から明治41年に「清元節」に改調されて現在の曲になりました。

 

静御前は佐藤忠信(実は源九郎狐)をお供に連れて義経のいる吉野山に旅立ちます。その静御前が義経から貰った「初音の鼓」は、忠信に化けた源九郎狐の親の皮を使って作られていました。

「初音の鼓」を慕い、懐かしむ狐忠信。

鼓の音や周りに飛んでいる蝶と、つい戯れてしまい時折狐の本性が出てしまうというコミカルな部分も見どころです。

 

曲の前半は、静御前が道を急ぎながらも吉野山の美しい風景と想い人(義経)への気持ちを重ねる場面。

中盤は忠信の兄である佐藤嗣信が壇ノ浦で義経を守り、討ち死にしてしまった話を静御前に報告する場面。

後半は静御前を捕らえるべく追いかけてきた「早見の藤太」との戦闘場面。

 

と、笑いあり涙ありの大作です。

  

 

初演

文化5年(1808)5月。江戸中村座。(富本節として)

忠信・三代目中村歌右衛門

静御前・四代目瀬川菊之丞

 

作詞者

三世 瀬川如皐(清元に改訂・竹柴金作)

作曲

富本・鳥羽屋里長(清元に改曲・清元梅吉)

 

 

 

今月の舞台で上演される個所の歌詞を掲載いたします。

歌詞を読まれると場面の雰囲気や意味が分かり、一層舞台を楽しくご覧いただけると思います!

 

 

  

歌詞

 

恋と忠義はいずれが重い 掛けて思いは計りなや

静かに忍ぶ旅立ちや

馴れぬ茂みのまがい道 弓手(ゆんで)も馬手(めて)も若草を

分けつつ行けば あさる雉子(きぎす)のぱっとたっては。

ほろろ けんけん ほろろうつ

なれは子ゆえに身を焦がす 我は恋路に迷う身の

ああ羨まし 妬ましや

 

谷の鶯 初音のつづみ はつねの鼓

調あやなす音に連れて つれて真似草 音に連れて

遅ればせなる忠信が 吾妻からげの旅姿

 

背に風呂敷 しかと背負たらおうて 野道あぜ道ゆらりゆらり

軽いとりなりいそいそと 目立たぬように道隔て

 

静 「おぉ忠信殿 待ちかねましたわいな」

忠信「これはこれは静様 女中の足と侮って思わぬ遅参 まっぴら御免くださりましょう」

静 「ここは名に負う吉野山 四方の梢もいろいろに」

忠信「春立つと 云うばかりにや三吉野の」

静 「山も霞みて」

忠信「今朝は」

両人「見ゆらん」

 

見渡せば 四方の梢もほころびて 梅が枝唄う歌姫の

里の男子が声々に 我が夫が天井ぬけて据える膳

昼の枕はつがもなや 天井ぬけて据える膳

昼の枕はつがもなや 可笑し烏の一節に

 

徳若にご万歳とは 君も栄えてましんます

愛嬌ありける柳ごし よい中村のやぐら幕

櫓太鼓のにぎにぎと 商い神の若えびす

繁盛まします その御徳に 御田の稲には穂に穂を栄え

宝御船萬石舟 色の実入りに今年綿

誠に目出度う さむらいける 

やしょめやしょめ 京の町のやしょめ

売ったるものは何々 はまぐり はまぐり

蛤 はまぐり はまぐり

はまぐり見さいなと売ったるものは何々

はまぐり早き貝合わせ

 

弥生は雛の妹背中 女雛男雛と並べておいて

眺めに飽かぬ三日月の 宵に寝よとは きぬぎぬに

急かれまいぞと恋の欲 桜は酒が過ぎたやら

桃にひぞりて後ろ向き 羨ましうは ないかいな

 

忠信「せめては憂さを 幸い 幸い」

 

姓名添えて賜わりし 御着せ長を取り出だし

君と敬い奉る しずかは鼓を御顔と よそえて上に置きの石

 

人こそ知らね西国へ 御下向の御海上 波風荒く御船を

住吉浦に吹き上げられ それより吉野にまします由

やがてぞ参り候らはんと 互いに形見を取り納め

実にこの鎧を賜わっしも 兄嗣信が忠勤なり

 

静「なに嗣信が 忠勤とや」

 

誠にそれよ 来し方を 思いぞ出る壇ノ浦の

 

忠信「海に兵船 平家の赤旗 陸(くが)に白旗」

 

源氏の強者 あら物々しやと夕日影 長刀引きそばめ

何某は平家の侍 悪七兵衛景清と名乗りかけ

薙ぎ立て薙ぎ立て 薙ぎ立つれば

花に嵐のちりちりぱっと 木の葉武者

言い甲斐なしとや方々よ 三保谷の四郎これにありと

渚にちょうと打ってかかる 刀を払ろう長刀の えなれぬ振る舞い いづれとも

勝り劣りは波の音 打ち合う太刀の鍔元(つばもと)より 折れて引く潮 帰る雁

勝負の花と見すつるかと 長刀小脇にかい込んで 兜の錣(しころ)を引っ掴み

後へ引く足 たじたじたじ 向こうへ行く足 よろよろよろ

むんずと錣をひっ切って 双方尻江に どっかと座す

腕の強さと言いければ 首の骨こそ強けれと

ムフフフフフ ダハハハハハ

笑いし後は入り乱れ 手しげき働き兄嗣信

君の御馬の矢面に 駒を駆け据え立ち塞がる

 

静 「おぉ聞き及ぶその時に 平家の方にも 名高き強弓」

 

能登守

 

静 「教経と」

 

名乗りも和えず よっ引いて 放つ矢先は恨めしや

兄嗣信が胸板に たまりもあえず真っ逆さま 敢え無き最後は武士の

忠臣義士の名を残す 思い出ずるも涙にて 袖は乾かぬ筒井筒

 

掛かるところへ早見の藤太 家来引き連れ立ち至る

 

※早見の藤太・家来 セリフ (舞台でお楽しみに!)※

 

禰宜が鼓に鈴振る手元 ちょっと鳥居を ありゃありゃしてこい

飛び越え狐 愛嬌も 宇賀の御霊は玉姫稲荷

妻恋 染めて嫁入りして そこらでしめたぞ天日照り

堅い契りのお岩様 四ツ谷でお顔を三巡りに

好いたらしいと思うたる 縁に引かれて車咲き

ちょっとおさえた強力の 袖すり抜けてどっこいな

えぇもうしつこい そこいらで

翁稲荷か とうとうたらり 喜びありや烏森

 

いつか御身も伸びやかに 春の柳生の いと長く

枝を連ぬる御契り などかは朽ちしかるべきと

互いに諫め いさめられ 急ぐとすれど はかどらぬ 芦原峠 鴻の里

雲と見紛う三吉野の 麓の里にぞ ※(着きにける)

 

赤字 竹本連中)

 

 

 

 

 

清元 國惠太夫

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

清元全集 清元集 清元五十番