江戸「吉原遊郭」について 歴男3

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こんにちは。くにえです。

 

あいも変わらず京都におります。

 

京都といえば花柳界(かりゅうかい)がまだまだ隆盛です。

花柳界、または花街(かがい・はなまち)とも言います。
元々、遊女屋や芸妓屋が集まっている辺りを指します。(現在では芸妓遊びのできる店が集まる所)を「遊郭(ゆうかく)」とも言いました。

 

遊郭とは安土桃山時代に成立し、以後、遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った地域のことで、
時の権力者が治安や風紀を監督するために建設されました。

日本全国の大都市に設けられました。

 

有名どころでは、大阪「新町遊郭」、京都「島原遊郭」、長崎「丸山遊郭」、江戸「吉原遊郭」などです。

 

 


中でも清元や歌舞伎に多々登場します「吉原遊郭」についてお話したいと思います。

 

ちなみに現在、僕もハマッているドラマ「JIN」でも吉原がたびたび登場しますよね。
大まかですが想像しながら読んでください。

 

 

 

 

「吉原遊郭」

 

吉原は江戸時代の1617年(元和3年)から1957年(昭和32年)の売春禁止法の制定までの340年間、存在していました。


1603年、幕府が江戸に置かれると、早急に町づくりをする必要がでてきて、関東一円より作業人を呼び集めました。また平穏な時代になったため多くの浪人が新都に溢れました。
当時の文献では江戸の男女比率が圧倒的に男性に傾いていたのです(人口の3分の2が男性だったという説も)。

そうなると自然と、江戸のあちらこちらで遊女屋が繁盛するようになりました。

 

江戸の人口は増え続け、政府の強制退去令で武家屋敷や住居の整備のために、特に遊女屋などは度重なる引越しを余儀なくされていました。

 

たまりかねた遊女屋の代表達が遊郭の設置を政府に願い出ます。
数年の後、現在の日本橋人形町の葦のおい茂る原っぱの土地を政府に提供され、1617年(元和3年)に吉原遊郭が誕生したのです。

 

 

葦の原っぱ・・・「葦原(あしわら)」。これが変わって「吉原(よしわら)」という名になりました。

(静岡の「吉原」という地名から遊女屋が沢山幕府成立と共に移動したからという説も)


しかし江戸はどんどん大きくなり、吉原遊郭に隣接して武家屋敷が立ち並ぶようになってきたため、
政府は風紀の乱れなどを理由に、吉原遊郭に再度移転命令を下しました。

反対意見も聞き入れられなかったことと、死者数万人と言われる「明暦の大火」で遊郭が全焼してしまったこともあり、移転命令を受諾して、後年知られる浅草裏に最終的な居を構えたのでした。

 

この移転を皮切りに移転前の場所を「元吉原」移転後を「新吉原」と呼ぶようになりました。

 

最盛期には数千人の遊女がいて、一日に千両(現在の約1億円)の売上げがあったといわれていますが、時代と共に衰退し、前述の1957年(昭和32年)に長い歴史の幕を閉じました。


 

清元や歌舞伎の題材とされる吉原は、とても華やかであったと感じることができます。

 

下世話でタブー視されそうな話ですが、実は多くの庶民に愛された特殊な町なのかもしれません。


 

清元 國惠太夫