2009年12月アーカイブ

こんにちは。くにえです。

 

年の瀬、今年も残りを数える日にちになってしまいましたね。

いやー、本当に早いものです。

このブログも今年の9月6日より約4ヶ月、多くの方にご愛読いただきました。
まことにありがとうございます。

 

今度機会を設けましてご紹介したいと思っていますが、

このブログを完成させるに至って、デザインを制作していただいたSatopiyさん。
ブログの構成に尽力してくれた小学校からの親友である、赤髪 田村啓暁さん。

そしてご愛読いただいています皆様。

本当にありがとうございます。

今後も末永くご愛読くださいませ。


 

来年2月には「第7回やのくら音楽会」控えております。

精一杯頑張らさせていただきますので、ご来場のほど、宜しくお願い申し上げます!

 

良いお年をお迎えください。
そして、来年もまた宜しくお願いします!


 

清元 國惠太夫

二枚目、三枚目

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こんにちは。くにえです。

昨日、一昨日とクリスマスでしたね・・・・。
一人身の私にとっては寂しさの極みです(泣)


今、京都の南座に出演しています。

kyoto minamiza.jpg

これが南座の正面です。

注目してしてみると木の板がたくさん並んでいるのが分かると思います。
これの一つ一つには幹部の役者さんの名前(名題)がズラッと並んでいるわけですね!

kyoto minamiza appu.jpg

この看板を張り出すのも、最近ではこの南座くらいです。それも12月の「顔見世興行」の名物なんですね!!

いやぁ、風情があります。

ちなみに今回は役者さんの数がうまい具合になっているらしく、
真ん中から左が関東役者【江戸】、右が上方(関西)役者【大阪】と並んでいます。
これはなかなかレアのようです。(関係者・談)
(真ん中に小さい看板で「清元連中」の文字は見えますか??(笑))

kyoto minamiza appu2.jpg

出ている看板の名前でお客さんを多く集められるところから「看板役者」という言葉がうまれました。

また真ん中の間隔を含め、両サイド(写真の場合は4サイド)から役者のランクや序列で並べられるのです。

かつての芝居小屋では、端から二番目には花形(色男)三番目には技巧派の名前が張り出していたことから良い男を「ニマイメ」、ぶ男や愚な男を「サンマイメ」と呼ぶようになったんですよ。


サンマイメ 清元 國惠太夫

こんにちは。くにえです。

 

あいも変わらず京都におります。

 

京都といえば花柳界(かりゅうかい)がまだまだ隆盛です。

花柳界、または花街(かがい・はなまち)とも言います。
元々、遊女屋や芸妓屋が集まっている辺りを指します。(現在では芸妓遊びのできる店が集まる所)

「遊郭(ゆうかく)」とも言いました。

 

遊郭とは安土桃山時代に成立し、以後、遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った地域のことで、
時の権力者が治安や風紀を監督するために建設されました。

日本全国の大都市に設けられました。

 

有名どころでは、大阪「新町遊郭」、京都「島原遊郭」、長崎「丸山遊郭」、江戸「吉原遊郭」などです。


中でも清元や歌舞伎に多々登場します「吉原遊郭」についてお話したいと思います。

 

ちなみに現在、僕もハマッているドラマ「JIN」でも吉原がたびたび登場しますよね。
大まかですが想像しながら読んでください。

吉原は江戸時代の1617年(元和3年)から1957年(昭和32年)の売春禁止法の制定までの340年間、存在していました。


1603年、幕府が江戸に置かれると、早急に町づくりをする必要がでてきて、関東一円より作業人を呼び集めました。また平穏な時代になったため多くの浪人が新都に溢れました。
当時の文献では江戸の男女比率が圧倒的に男性に傾いていたのです(人口の3分の2が男性だったという説も)。

そうなると自然と、江戸のあちらこちらで遊女屋が繁盛するようになりました。

 

江戸の人口は増え続け、政府の強制退去令で武家屋敷や住居の整備のために、
特に遊女屋などは度重なる引越しを余儀なくされていました。

たまりかねた遊女屋の代表達が遊郭の設置を政府に願い出ます。
数年の後、現在の日本橋人形町の葦のおい茂る原っぱの土地を政府に提供され、1617年(元和3年)に吉原遊郭が誕生したのです。

 

葦の原っぱ・・・「葦原(あしわら)」。これが変わって「吉原(よしわら)」という名になりました。

(静岡の「吉原」という地名から遊女屋が沢山幕府成立と共に移動したからという説も)


しかし江戸はどんどん大きくなり、吉原遊郭に隣接して武家屋敷が立ち並ぶようになってきたため、
政府は風紀の乱れなどを理由に、吉原遊郭に再度移転命令を下しました。

反対意見も聞き入れられなかったことと、死者数万人と言われる「明暦の大火」で遊郭が全焼してしまったこともあり、移転命令を受諾して、後年知られる浅草裏に最終的な居を構えたのでした。

 

この移転を皮切りに移転前の場所を「元吉原」移転後を「新吉原」と呼ぶようになりました。

 

最盛期には数千人の遊女がいて、一日に千両(現在の約1億円)の売上げがあったといわれていますが、時代と共に衰退し、前述の1957年(昭和32年)に長い歴史の幕を閉じました。


 

清元や歌舞伎の題材とされる吉原は、とても華やかであったと感じることができます。

下世話でタブー視されそうな話ですが、実は多くの庶民に愛された特殊な町なのかもしれません。


 

清元 國惠太夫

LOVE!京都

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こんにちは。くにえです。

今、京都に歌舞伎出演のために滞在しております。

毎日ホテルから南座まで鴨川の脇を通っています。
何といっても風情があってなんとも良い景色ですよね!大好きです!

 

kyoto kamogawa.jpg

 

しかし、ものすっっっっっっっっっっごく寒いっす(汗)←も出ない【笑】
体の芯から冷えます。

でもでもやっぱりこの「歴男」にとって欠かせない町ですよね。
ちょっと歩けば数々の歴史と所縁のある場所がありますからね!
ゾクゾクします。

いえいえ寒いからじゃないですよ(笑)

取りあえずは年末近くまで居ますので、ぶらぶら興奮したいと思います。

LOVE 京都!!!

 

清元 國惠太夫

清元「流星」について

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こんにちは。くにえです。

いよいよ本格的な冬になりましたね。
外出時にコート、マフラーが欠かせなくなってしまいました!

 

今日は七夕ティーパーティー at wachaや第5回やのくら音楽会で演奏しました「流星」についてです。

 

本名題を「日月星晝夜織分(にちげつせいちゅうやのおりわけ)」といいます。

通称は、開曲当初「夜這星(よばいぼし)」と言われていましたが、時代と共に世間を憚って
「流星(りゅうせい)」と呼ばれています。

1859年(安政6年)に江戸市村座で初演されました。

 

この年の出来事といえば、大老井伊直弼が「安政の大獄」に踏み切り、徳川慶喜を始めとする
多くの学者や各藩の有力な人物が処分を下された年ですね。


曲の内容は、七夕の夜に牽牛(けんぎゅう)【←彦星のこと】と織姫が年に一度の逢瀬を
楽しんでいるところに流星が飛んできて天上界のことについて知らせに来ます。
話の内容とは、自分の隣に住む雷夫婦の喧嘩のことでした。
ある日、父雷が雲から落っこちてしまい、端唄の師匠のところに居候します。その時に聞いて
覚えた端唄混じりの雷を天上界に戻っても、つい鳴らしてしまいます。
その鳴り様に呆れた母雷と夫婦喧嘩になってしまうのです。
子雷や隣の婆雷が仲裁に入りますが、いっこうに収まりません。

はたして結末とは?

 

当時流行歌だった「端唄」や伝染病として蔓延した「コロリ(これら)」など、
当時の世相がよく反映された作品です!

 

 

 

 

流星

作詞 河竹 新七(のちの黙阿弥)  作曲 清元 順三


それ銀漢と唐詞に 深くも願う夫婦星 なつかしやわがつまさまおかわりとてもあらざりしか おもえば年にただ一度 この七夕に逢うのみにて かりのたよりもなき身の上 なつかしきはいかばかり とりわけ去年は雨ふりて そもじにあうも三年越し 寄り添う折から闇雲に 御注進 御注進 呼ばわる声も高島や 飛んで気軽な流星が 丸い世界へ生まれしからは 恋をするのが特鼻褌(とくびこん) 寝るに手まわし宵から裸 ぞっと夜風にハッハッハッ ハックサメ 彼奴が噂をしているか エエ畜生めと夕闇を 足も空にて駆け来たり 誰かと思えばそちゃ流星 注進とは何事なるか 様子はいかに ハハーッ さらば候そろそろと 三つ合わせてさん候 およそ夜這いと化け物は 夜中のものに宵の内 とろとろやろうと思いのほか 一つ長屋の雷が 夫婦喧嘩の乱騒ぎ 聞けばこの夏流行の 端唄の師匠へ落っこちて 気は失なわねど肝心の 雲を失い居候 そこで端唄を聞き覚え この天上へ帰っても つい口癖になるときも ごろごろごろごろごろごろ エエごろごろごろ 聞く女房は呆れ果て マッコレそんなのろけた鳴りようでは 恐がるお臍で茶を沸かそう 鳴るなら大きな声をして ゴロゴロゴロ ピカピカピカ ゴロゴロゴロ ピカピカピカ ゴロゴロ ゴロゴロ ゴロゴロゴロゴロ ゴロゴロ・・・・・ピシャリっと鳴らねばさまを付けられぬ  と言えば亭主は腹を立て それは昔の雷だ 大きな声で鳴らずとも 粋に端唄で鳴るのが当世 それがいやなら 出て行きゃれ なに出て行けとは オオサ角を見るのも アア厭になった 我がもの故に仕方なく 我慢をすりゃあつけ上がり 亭主を尻に引きずり女房 サア恋の重荷の子供を連れ きりきりと出て行きゃれ いえいえここは私の家お前は婿の小糠雨 傘一本もない身の上 汝そうぬかせば了簡がと 打ってかかるを ゴロゴロゴロ ゴロゴロゴロと鳴る音に傍に寝ていた小雷 コヨコヨコヨと起き上がり コレ父さん可哀想に母さんを 背負った太鼓じゃあるまいし 何でそのようにたたくのじゃ 堪忍してとコヨコヨコヨ かかる騒ぎに隣りから 婆雷が止めに来て マママこれ お前方はどうしたのじゃ 夫婦喧嘩は雷獣も 喰わぬに野暮を夕立は どんな太鼓の八つ当たり 出て行との一声は 月が鳴いたか時鳥 いつしか白む短夜に まだ寝もやらぬ手枕や アレおなるさんもくよくよと 愚痴なようだが コレマ泣いているわいな 端唄に免じて五郎介どの 了簡見してとゴロゴロゴロ いえいえ私しゃ 打たれたからは 了簡ならぬとゴロゴロゴロ ならずば汝とゴロゴロゴロ 父さん待ってコヨコヨコヨ これはしたりとゴロゴロゴロ 止めるはずみに雷婆 ウーンとばかりに倒るれば こりゃころりではあるまいか 医者よ針医と立ち騒げば 入れ歯の牙を飲み込んで 胸につかえて苦しやと 言うにおかしく仲直り夫婦喧嘩のあらましは かくの通りと言い捨てて ハヤおさらば 虚空はるかに失せにけり

清元 リハーサル

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こんにちは。くにえです。

今日1日休みだった僕は・・・ゴロンゴロンしてました。ハハハっ。

 

私は日頃、舞台で清元を語らせていただいてる訳ですが、
過去から現在に至るまで舞台上で間違ってしまい、恥をかくことも数多く経験してきました(汗)

 

舞台ってお客様が目の前にいらっしゃる、言うなれば生番組じゃないですか!
それはそれは緊張しますよ。

同じ曲を何十何百と演奏しても、その場のお客様の雰囲気や舞台上の状況で
まったく違うものが出来上がるのです。

これが舞台の怖さであり、また楽しさでもあります。


そんな舞台というものは、沢山の人々の力で成り立っていると思っています。

演者さん、舞台美術や照明などの裏方さん、我々演奏家。
皆さんがガチンコで一つのモノを作り上げるわけですから、当然リハーサルというものが存在します。

 

歌舞伎では「付け稽古」「総浚い(そうざらい)」「舞台稽古」と呼ばれる3~4回のリハーサルで
本番をむかえます。

 

日本舞踊の場合は「つぼ合わせ」「下浚い(したざらい)」「舞台稽古」(無い場合が多い)の
リハーサル2~3回で本番という順序です。

 

ちなみに「やのくら音楽会」は?というと、当日の、昼の部開催前の40分ぐらいしかリハーサルしません。笑

 

回数が少なく感じられるかもしれませんが、それぞれプロフェッショナルなので、曲の抜き差し(曲を部分的に抜粋して演奏すること)や、きっかけを確認する程度で終わることが多く、稽古と銘打っていても実際曲自体の稽古や振りの稽古を通してやったりする場ではないのですよね。

そんな内容で、尚且つ各関係者が大勢見ているところでのリハーサルすることもあるのですが、

正直たまりません!

 

いまだに緊張で手が震えることもありますよ(泣)

 

負けるな!國惠太夫! 頑張れ!國惠太夫!!!(笑)

 

清元 國惠太夫

こんにちは。くにえです。


国旗ってありますよね。

 

色や形だけでなく、動物や太陽など具体的なモノが描かれている場合もあります。
その国の宗教や信条、文化、思想などが盛り込まれて、1枚1枚成っているものです。

 

日本国の国旗はご存知「日の丸」ですが、またこの日の丸が粋だと思いませんか?!

白地の中央に赤丸が一つ。幼稚園の運動会で手作り国旗を作って飾っていましたが、
日の丸が圧倒的に多かったと記憶してます(笑)

 

単純で、かつインパクト抜群ですね。


そもそも「日の丸」は西暦700年頃、遣唐使を現在の中国に派遣している時代に
「日像」として掲げたことが最初とされています。
「日出づる国」として太陽は象徴だったんですね!

 

明治のはじめに憲法で制定されたことにより、正式に日本の国旗として決まり、シンボルとなりました。


話は小さくなりますが、会社や学校にもシンボルマークやロゴというものが存在します。

 

我々清元にもシンボルマークがあるんです。
こちらの業界では「定紋(じょうもん)」と呼びます。

清元は「はなびょうたん」という定紋で、瓢箪の花を縦にスパッと切った側面を表しています。

2009_12_4_hanabyoutan.gif

(画像は紋付からスキャンしたもので少々見づらいですが・・・(汗))

この「はなびょうたん」は明治時代のころ、五世家元 清元延寿太夫が定めたものとされています。

以降、百数十年、高輪清元の定紋として今に伝えられているものなんです。

清元 國惠太夫


清元「雁金」について

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こんにちは。くにえです。

今回は第3回やのくら音楽会でも抜粋して演奏しました、雁金について書きたいと思います。

本名題を「色増栬夕映」(いろまさるもみじのゆうばえ)といいます。

この曲は1881年(明治14年)に江戸新富座で初演されました。

江戸新富座は関東大震災まで、現在の京橋税務署と東京都中央都税事務所があるあたりに建っていました。

 

「島鵆月白浪」(しまちどりつきのしらなみ) という歌舞伎演目の3幕目で使用された曲で、
主要人物が全員盗賊で、最後には各々の因果を悟り改心してゆくといった作品です。

 

3幕目「望月邸」の場面の内容は、以前大泥棒だった望月輝(もちづきあきら)と妾である芸者お照の色模様を扱ったもので、通う輝を今かと待ち焦がれるお照の心境を、秋のもの悲しい風情と哀愁に妖艶さをも感じさせる清元の名曲です。

ちなみにこの作品は2世 河竹新七が「河竹黙阿弥」を名乗る際のお披露目として書かれた作品でもあります。

 

 

 

雁金

作詞 河竹 黙阿弥    作曲 二世 清元 梅吉

 

(本調子)雁金の結びし蚊帳(かや)も昨日今日 残る暑さを忘れてし 肌に冷たき風たちて
昼も音を鳴く蟋蟀(こおろぎ)に 哀れを添える秋の末 露の涙のこぼれ萩
曇りがちなる空癖(そらぐせ)に 夕日の影の薄紅葉 思わぬ首尾にしっぽりと
結びし夢も短夜に 覚めて恨みの明けの鐘 早や夏秋もいつしかに
過ぎて時雨の冬近く 散るや木の葉のばらばらと 風に乱るる荻すすき
草の主は誰ぞとも 名を白菊の咲き出でて 匂うこの家(や)ぞ 知られける